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張家山第二四七号漢墓竹簡訳注(一)

2004年03月13日 22:07 早稲田大学簡帛研究会 点击:[]

序 言


一九八三~八四年、湖北省荊州市荊州区張家山の第二四七号漢墓から、一二三六枚にも及ぶ、大量の竹簡が出土した。この第二四七号漢墓は土坑木槨墓で、槨室の中に棺が置かれ、竹簡などの副葬品は槨室内の頭箱に納められている。墓及び副葬品の形態は前漢早期のものであるが、竹簡群中に含まれている暦譜が前漢の呂后二年(前一八六年)で終わっているので、被葬者が死亡し、埋葬されたのもこの年か、あるいはその後遠からぬうちのことと推測されている。被葬者の姓名などは未詳であるが、墓の規模、副葬品の形態・数量、及び竹簡群の内容から、何らかの下級官吏を務めた人物と考えられている。

竹簡群はもともと「竹笥」(竹製の箱)に入れられていたようであるが、竹笥は既に朽ちており、しかも泥やその他の副葬品による圧迫を受けて、破損している竹簡もある。また、竹簡群は数巻の冊書として編まれていたらしいが、槨室内への浸水によって散乱し、いかなる順序で編綴されていたのか、一見しただけではわからなくなっていた。それゆえ、竹簡群の整理にあたった張家山漢墓竹簡整理小組は、竹簡の堆積状況や形態・字体・内容などから判断して、その順序を復元したのであるが、その結果、以下のような内容の文書の含まれていることが明らかになった。すなわち、前漢の高祖五年(前二〇二年)~呂后二年(前一八六年)の暦譜、呂后(?)二年の紀年を有する律令である「二年律令」、漢代初期までの裁判例を内容とする「奏讞書」、人体の経脈や疾病について述べた「脈書」、数学的例題の解法について記した「算數書」、呉王闔廬と伍子胥との問答体で記された兵法書である「蓋廬」、「導引」(養生のための呼吸法)について述べた「引書」、及び当該墓の副葬品を列挙した遣策、である。暦譜が呂后二年で終わっていることから、これらが書写されたのもこの年を下るものではないと考えられている。まさに前漢初期、及びその前後の時代の法制・科学・思想・文化などを知るうえで、貴重な史料といえよう。

本訳注はこれらの各文書を対象とするものであるが、各担当者が並行して各文書の訳注にあたるため、本誌には毎号複数の文書の訳注が少しずつ掲載されることになる。ただし、本号では二年律令の「賊律」の訳注を掲載するにとどめた。本訳注を通して、当時の法制・科学・思想・文化などに関するこれまでの学説を再検討するとともに、張家山第二四七号漢墓竹簡によって新たに知られるようになったことや、そこから派生する問題点などについて指摘し、同じ領域の研究を志す者への便に供したいと考えている。


      凡 例


一、簡番号・釈文は張家山二四七号漢墓竹簡整理小組『張家山漢墓竹簡〔二四七号墓〕』(文物出版社、二〇〇一年)によった。

一、 原 文 は『張家山漢墓竹簡』の図版・釈文を参考にして、簡文を原文の通り、一簡ごとに示したものである。

一、 校訂文  原 文 に句読点を加えたものであり、簡文中の文字に通仮字や錯字と解されるものがある場合には、括弧で示しておいた(各種括弧の指す意味については、後掲参照)。

また、 校訂文 においては、簡の上ないし下が断絶している場合には、簡の上や下に「……」という記号を付した。これについては、後掲の 書き下し文  通 釈 についても同様とする。

 なお、文中に挿入した「〔一〕」などは、後掲の 注 釈 の番号である。

一、 注 釈 の「〔整理小組〕」以下は『張家山漢墓竹簡』の釈文にそれぞれ付されている注を和訳したものである。また、「〔案〕」以下は我々が付した案語である。

一、 注 釈 の案語や 考 察 の中で論文・書籍を参照した場合には、参照した箇所の末尾に、著者の姓ないし団体名の略称、及びその刊行年次(西暦)の順に括弧内に表記し(例えば「(工藤一九九八)」など)、論文及び書籍の題名・発行所・巻数・号数などの詳細については、本訳注の末尾に「参考文献」として列挙した。また、一年に同じ著者の論文・書籍が複数刊行されており、それらを引用する場合には、刊行日の先後に従って、刊行年次の下に「a」・「b」・「c」などの記号を記した(例えば「工藤一九九四a」)。一人による単著から複数の論文を引用する場合にも、章次の早い順に「a」・「b」・「c」とした。それから、書籍の場合には、刊行年次の下にその頁数を記したものもある(例えば「(工藤一九九八、三四二~三四六頁)」など)。

一、 書き下し文  校訂文  注 釈 において示した解釈に従って、訓読したものである。

一、 通 釈  校訂文 を和訳したものである。

一、二年律令の簡文、及び 注 釈  考 察 において引用するその他の出土文字資料で使用した記号は、それぞれ次のような意味を示すものである。

     簡牘・帛書がそれより上ないし下で断絶していることを示す。

  ②□   一字分の判読不能文字があることを示す。

一、二年律令も含めて、出土文字資料の文中に見える「■」・「●」・「∠」・「∥」などは、原文で使用されている記号であり、出土文字資料を掲げる場合には、これらの記号をそのまま表記した。ただし、「∥」(重文符号・合文符号)については、 原 文 においてのみこの記号をそのまま用い、 原 文 以外のところでは、この記号の示すところに従って表記した。例えば、「辠∥」は「辠辠」と、「夫∥」は「大夫」と表記した。

一、二年律令の簡文及び引用史料中の各種括弧内に示した文字は、それぞれ次のような意味を示すものである。

 ①( ) 直前の文字が( )内の文字の通仮字ないし異体字であることを示す。

 ②〈 〉 直前の文字が〈 〉内の文字の誤りであることを示す。

 ③【 】 原文には記されていないが、文脈・内容から判断して補うべき文字。

 ④〔 〕 原文には記されていないが、引用の都合上、文章の意味を明確にするために補ったもの。

         二年律令訳注


      解 題


「二年律令」という名称は、二年律令第一簡の背面に、

  ■二年律令

とあるように、一連の文書の題目として、原簡に記されたものである。この「二年」については、同じく張家山第二四七号漢墓から出土した暦譜が呂后二年で終わっており、しかも二年律令の中には、呂氏一族を優遇する旨の規定が存在することから、呂后の「二年」を指すと考えられている。この二年律令には、賊律・盗律・具律・告律・捕律・亡律・収律・襍律・銭律・置吏律・均輸律・伝食律・田律・□市律・行書律・復律・賜律・戸律・效律・傅律・置後律・爵律・興律・徭律・金布律・秩律・史律・津関令といった、二十八種の律令の条文が収録されている。睡虎地秦簡の「秦律十八種」や「秦律雜抄」では、例えば「禾・芻稾勶(撤)木・薦、輒上石數縣廷。勿用、復以薦蓋。 田律」(第七七簡)などとあるように、一条ずつ条文の末尾に「某律」という形で、それがいずれの律の条文であるのかが記されているが、二年律令では、各律令の条文が数条ずつ記された後、末尾の独立した一簡に、その律令の名称が記されているという違いがある。したがって、各竹簡がいずれの律に属するものであるのかは、竹簡の順序が明らかであれば一目瞭然であったであろうが、先述のように、残念ながら張家山第二四七号漢墓の竹簡群は、散乱した状態で発見されている。それゆえ、竹簡の順序もその堆積状態、竹簡の形態・字体・内容などから判断して復元されているので、各竹簡がいずれの律の条文に属するものであったのかについては、あくまでも整理者の復元によっているという問題点もあることを、意にとどめておくべきであろう。

 漢代の律令の条文は、従来は『漢書』の本文や注に引用されているものなど、文献史料からわずかに知りうる程度であった。しかし、二年律令の出土によって、漢代の律令に関する史料が飛躍的に増大したことになる。そこで、本訳注は、二年律令の各条を詳細に検討し、漢代の律令の内容を明らかにするとともに、漢代初期の漢律に多大な影響を与えたと目されている秦律との関係をも検討するものである。


      研究の手引き


       一 先行研究


 二年律令の釈文は、二〇〇一年一一月に文物出版社より刊行された、張家山二四七号漢墓竹簡整理小組『張家山漢墓竹簡〔二四七号墓〕』において初めて公表された。それゆえ、現在のところ二年律令に関する先行研究は極めて少なく、これについて多少なりとも述べている論文は、わずかに次の〔1〕~〔10〕があるにすぎないようである。

 〔1〕張家山漢墓竹簡整理小組「江陵張家山漢簡概述」(『文物』一九八五年第一期。李学勤『簡帛佚籍与学術史』(時報出版、一九九四年)再録)

 〔2〕彭浩「江陵張家山漢墓出土大批珍貴竹簡」(『江漢考古』一九八五年第二期)

 〔3〕彭浩(鳥井克之訳)「湖北江陵出土前漢簡牘概説」(大庭脩編『漢簡研究の現状と展望』関西大学出版部、一九九三年)

 〔4〕李学勤(曹偉琴訳)「江陵張家山二四七号漢律竹簡について」(前掲『漢簡研究の現状と展望』。李氏前掲書再録)

 〔5〕張建国「試析漢初「約法三章」的法律效力――兼談「二年律令」与蕭何的関係」(『法学研究』一九九六年第一期。張氏『帝制時代的中国法』(法律出版社、一九九九年)再録)

 〔6〕張建国「叔孫通定『傍章』質疑――兼析張家山漢簡所載律篇名」(『北京大学学報』哲学社会科学版一九九七年第六期。張氏前掲書再録)

 〔7〕李学勤「試説張家山簡『史律』」(『文物』二〇〇二年第四期)

 〔8〕李均明「張家山漢簡所反映的二十等爵制」(『中国史研究』二〇〇二年第二期)

 〔9〕李均明「漢簡所反映的関津制度」(『歴史研究』二〇〇二年第三期)

 〔10〕水間大輔「張家山漢簡「二年律令」刑法雑考――睡虎地秦簡出土以降の秦漢刑法研究の再検討――」(『中国出土資料研究』第六号、二〇〇二年刊行予定)

〔7〕~〔10〕以外は、いずれも二年律令の釈文が公表される前に著されたものであるが、これらのうち〔1〕~〔4〕は、実際に二年律令の整理・釈文に従事した者の手に成るものであり、二年律令の篇目や内容について紹介したものである。一方、〔5〕、〔6〕の張建国氏の論文も、釈文が公表される前のものであるが、〔1〕~〔4〕で紹介されている限られた情報をもとに、二年律令について言及したものである。この〔5〕、〔6〕の中では、前漢初期に蕭何が定めたとされる「九章律」、及び叔孫通の「傍章」と二年律令の関係について述べられている。〔7〕~〔10〕は釈文公表後の論文であり、〔7〕は二年律令の「史律」について述べたものである。〔8〕は二年律令及び「奏讞書」に見える爵制について述べたものであり、〔9〕は二年律令の「津關令」やその他の漢簡を史料として、当時の関津に関する制度について述べたものである。〔10〕は二年律令中の刑法に関する条文を史料として、従来の秦律・漢律の刑法についての学説を再検討したものである。


       二 参照すべき史料・工具書


 次に、二年律令を読む際には、主に以下のような史料が参考となるであろう。


       (甲)文献史料上の漢律


 まず、二年律令は漢代の律令であるから、文献史料に引用されている漢律を参照すべきである。文献史料から漢律の条文を蒐集することは、瀧川政次郎氏が紹介しているように、特に清朝末期~民国初期にかけて盛んに行われたが(瀧川一九四一)、中でも有用なのは、沈家本『漢律摭遺』と程樹徳『九朝律考』の両書であろう。これらに標点を加えたものに、

 〔11〕鄧経元・駢宇騫点校『歴代刑法考』(中華書局、一九八五年)

 〔12〕『九朝律考』(中華書局、一九六三年)

がある。


       (乙)秦律(睡虎地秦簡)


 次に、二年律令の「解題」でも述べた通り、二年律令は秦律との関係が注目される。秦律を知るうえで最も重要な史料は、一九七五年に湖北省雲夢県睡虎地の第一一号秦墓から出土した睡虎地秦簡であるが、この中には戦国時代後期の秦の法制史料が大量に含まれている。睡虎地秦簡の研究の手引きとしては、

 〔13〕矢澤悦子「睡虎地秦墓竹簡研究の手引き」(『法史学研究会会報』第二号、一九九七年)

があるので、そちらを参照されたい。ここでは必要最低限と思われるものを列挙するにとどめておく。

 〔14〕雲夢睡虎地秦墓編写組『雲夢睡虎地秦墓』(文物出版社、一九八一年)

 〔15〕睡虎地秦墓竹簡整理小組『睡虎地秦墓竹簡』(文物出版社、一九九○年)

 〔16〕張世超・張玉春合編『秦簡文字編』(中文出版社、一九九〇年)

 〔17〕大川俊隆・高橋庸一郎・福田哲之主編『雲夢睡虎地秦簡通仮字索引』(朋友書店、一九九〇年)

 〔18〕樹下俊之介『睡虎地秦簡一字索引』(明徳出版社、二〇〇一年)

 〔19〕秦簡講読会「『雲夢睡虎地秦墓竹簡』釈註初稿」(『中央大学大学院 論究』第一〇巻第一号~第一五巻第一号、一九七八~八三年)

 〔20〕Katrina C.D.Mcleod and Robin D.S.Yates, "Forms of Ch'in law: an annotated translation of the Feng-chenshih", in Harvard journal of Asiatic studies 41-1, 1981.

 〔21〕A.F.P.Hulsewé, "Remnants of Ch'in law, an annotated translation of the Ch'in legal and administrative rules of the 3rd century B.C. discovered in Yün-meng prefecture, Hu-pei province, in 1975", Leiden, E.J.Brill, 1985.

 〔22〕早稲田大学秦簡研究会「雲夢睡虎地秦墓竹簡訳注初稿」(『史滴』第九号~二一号、一九八八~九九年)

 〔23〕松崎つね子『睡虎地秦簡』(明徳出版社、二〇〇〇年)

 〔24〕堀毅「有関雲夢秦簡的資料和著述目録」(同氏『秦漢法制史論攷』所収、法律出版社、一九八八年)

 〔25〕徐富昌「雲夢秦簡相関資料和著述目録」(同氏『睡虎地秦簡研究』所収、文史哲出版社、一九九三年)

〔26〕工藤元男『睡虎地秦簡よりみた秦代の国家と社会』(創文社、一九九八年)

 〔27〕冨谷至『秦漢刑罰制度の研究』(同朋舎、一九九八年)

〔14〕は、睡虎地第一一号秦墓の発掘報告書である。その中に竹簡の図版が掲載されており、各竹簡の左側にそれが何の字にあたるのかが一字ずつ記されている。図版が縮小されているという欠点もあるが、竹簡左側に付された釈文は、原簡の字に比較的忠実であり、竹簡上の符号なども記されているという利点もある。

〔15〕は、睡虎地秦簡の図版・釈文・注釈・現代中国語訳で構成されている。図版は竹簡の実物大であり、〔14〕よりも鮮明である。ただし、釈文にはしばしば誤植があるので、本書の図版や〔14〕の釈文を参照する必要がある。なお、本書は二〇〇一年に再版されているが、誤植は訂正されていない。

〔16〕は、睡虎地秦簡の文字を書き写し、文字ごとに集めたものであり、睡虎地秦簡の字形を知るうえで有用である。なお、本書は一字索引としても利用可能である。〔17〕、〔18〕も睡虎地秦簡の一字索引である。

〔19〕~〔23〕は、睡虎地秦簡の訳注である。〔19〕は、「日書」を除く睡虎地秦簡全文を訓読し、簡単な注を施したものである。〔20〕は「封診式」の訳注、〔21〕は日書を除く睡虎地秦簡全文の訳注である。〔22〕は、睡虎地秦簡の「語書」・「爲吏之道」・「封診式」、及び「法律答問」の一部について、詳細な注を加えたものである。〔23〕は、法律答問全文についての訳注である。

〔24〕、〔25〕は、睡虎地秦簡を史料として使用した論文を集めたものである。

〔26〕、〔27〕は、いずれも睡虎地秦簡を主な史料としてまとめられた研究書である。二年律令を読むうえでは、〔26〕は行政・官制について、〔27〕は刑罰について大いに参考となろう。なお、睡虎地秦簡は本によって簡番号が異なっているが、〔26〕の巻末には各本の簡番号の対照表が掲載されており、非常に便利である。


       (丙)奏讞書


 先述のように、二年律令と同じく張家山第二四七号漢墓から出土した「奏讞書」は、前漢初期までの裁判例を内容とするものであるが、裁判制度について重要な史料であるのみならず、しばしばその中には律の条文も引用されている。それゆえ、二年律令とほぼ同時代の法制史料として、奏讞書は二年律令を読むうえで非常に重要である。奏讞書の釈文は『張家山漢墓竹簡』の刊行を待つまでもなく、既に一九九三年と九五年の二度にわたって『文物』誌上で公表されているため(張家山一九九三、同一九九五)、相当量の研究の蓄積があり、関連論文目録なども作られている(〔31〕)。それゆえ、奏讞書に関する工具書ついても、以下に列挙するように、必要最小限にとどめておく。

 〔28〕飯尾秀幸「張家山漢簡『奏讞書』をめぐって」(『専修人文論集』第五六号、一九九五年)

 〔29〕中国の歴史と地理研究会『江陵張家山漢簡『奏讞書』――中国古代の裁判記録――』(一九九六年)

 〔30〕学習院大学漢簡研究会「江陵張家山漢簡『奏讞書』を読む」(『中国出土資料研究』第四号・五号、二〇〇〇・〇一年、『学習院史学』第三八号・三九号、二〇〇〇・〇一年)

 〔31〕学習院大学漢簡研究会「江陵張家山漢簡『奏讞書』関係論文目録」(『学習院史学』第三八号・三九号附録)

〔28〕と〔29〕はいずれも一九九三年に公表された奏讞書の前半部分(案例一~一六)の訳注、また〔30〕は案例一、二、一七~二二についての訳注である。なお、〔29〕には訳注の他にも、奏讞書の事項索引・一字索引、関連論文目録などが収録されており、奏讞書を読むうえで有用である。


       (丁)その他の出土文字資料


 以上のように、竹簡・木簡などの出土文字資料には、しばしば従来の文献史料では必ずしも知りえなかった、法制に関する史料が含まれている。そのような出土文字資料は他にもたくさんあるが、これらについての研究の手引きとしては、

 〔32〕石岡浩「秦漢簡牘研究の手引き」(『法史学研究会会報』第五号、二〇〇〇年)

があるので、参照されたい。


       (戊)唐律


 秦律・漢律を読む際には、しばしば唐律の条文が参考になることもある。唐律の標点本としては、

 〔33〕劉俊文『唐律疏議箋解』(中華書局、一九九六年)

があり、これには劉俊文氏による注釈が付されている。また、他にも唐律の訳注書としては、

 〔34〕律令研究会編『訳註日本律令』五~八(東京堂出版、一九七九~九六年)

がある。



      賊律訳注(一)

                                        担当 水 間 大 輔


○第一簡背

 原 文 

 ■二年律令


 校訂文 

 ■二年律令〔一〕


 注 釈 

〔 一 〕〔整理小組〕『二年律令』は書題であり、首簡の背面に記されている。同墓から出土した暦譜は漢の高祖五年(紀元前二〇二年)から呂后二年(紀元前一八六年)の間のものであり、簡文の中には呂宣王及びその親属を優遇する規定があり、また呂宣王は呂后の父の諡号であり、呂后元年より用いられたものであるから、「二年律令」の「二年」は呂后二年であろう。この簡の図版はいったん写真撮影した後、追加して撮影したものであるため、もとの正面の形状と若干異なっている。〔案〕本簡の冒頭は黒く塗りつぶされている。二年律令には、律令の名を記した標題簡が全部で二八本あるが、簡首が欠けているものを除けば、全て簡首が塗りつぶされている。張家山第二四七号漢墓竹簡の他の文書では、「算數書」の標題簡にのみこのような塗りつぶしが見られる。

    整理小組のいう「呂宣王及びその親属を優遇する規定」とは、二年律令の「具律」に「呂宣王内孫・外孫・内耳孫玄孫、諸侯王子∠・内孫∠・耳孫、徹侯子・内孫有罪、如上造・上造妻以上」(第八五簡)とあるのがそれである。また、「呂宣王」が呂后の父の諡号であり、呂后元年に命名されたものであることは、『漢書』巻一八外戚恩沢侯表の臨泗侯呂公の条に「高后元年、追尊曰呂宣王」とある通りである。

    「二年律令」の「二年」については、整理小組の注のみならず、これまで発表されてきた諸論文では、一般に呂后二年を指すと解されている。しかし、それに対して張建国氏は、文献史料から前漢の高祖二年に蕭何が律令を定めたと解され、むしろ呂后二年に大規模な律令の整理・修訂を行ったことが史料上見られないことなどから、「二年」は呂后二年ではなく高祖二年を指すとする。そして、張家山第二四七号漢墓出土の二年律令については、蕭何が定めた律令を基礎とするが、その後新たに加えられた条文も含まれていると述べている(張一九九九、四三・四四頁)。


○第一簡・二簡

 原 文 

 以城邑亭鄣反降諸侯及守乘城亭鄣諸侯人來攻盜不堅守而棄去之若降之及謀反者皆 一

 要斬其父母妻子同産無少長皆棄市其坐謀反者能偏捕若先告吏皆除坐者罪     二


 校訂文 

以城・邑・亭・鄣反降諸侯〔一〕、及守乘城・亭・鄣〔二〕、諸侯人來攻盜〔三〕、不堅守而棄去之、若降之、及謀反者〔四〕、皆要(腰)斬〔五〕。其父母・妻子・同産無少長皆棄市〔六〕。其坐謀反者〔七〕、能偏(徧)捕〔八〕、若先告吏〔九〕、皆除坐者罪。


 注 釈 

〔 一 〕以城~諸侯 〔整理小組〕亭障とは漢代の要塞であり、軍が駐留するところである。『後漢書』光武紀下に「築亭候、修烽燧」、その注に「亭候、伺候望敵之所」とあり、また『漢書』武帝紀に「太初三年秋、匈奴入定襄・雲中」、「行壞光祿諸亭障」、その師古注に「漢制、毎塞要處別築爲城、置人鎭守、謂之候城、此即障也」とある。城は障よりも大きいものであろう。『文選』北征賦の注が引く『蒼頡』に「障、小城也」とある。反は、叛である。諸侯とは、当時では漢初に分封された諸侯国を指す。〔案〕「鄣」は、整理小組の釈文では「障」に作るが、図版によれば「邑」が右辺にあることは明らかなので、改めた。もっとも、「亭鄣」の「鄣」は、労榦氏が用例を集めているように、文献史料では「障」に作るものもある(労一九四八)。

 漢代の「亭鄣」について労榦氏は、史料ではしばしば「亭鄣」と連称されているが、「亭」と「鄣」はそれぞれ別の建築物であると述べている。すなわち、「亭」は辺塞で哨戒にあたる単位であり、また亭内にある建築物も「亭」と呼ばれ、「燧」(烽火台)もその一種であるが、「鄣」は「塞」(辺境の防衛線)上の小城であるとする(労一九四八)。

「反」について、整理小組は「叛」の意とするが、唐律では「反」と「叛」の間に明確な区別があった。すなわち、唐律では名例律に「一曰謀反」とあり、その注に「謂謀危社稷」とあるように、「反」とは国家や皇帝に対して危害を加えることを指す。それに対して、「叛」とは、同じく名例律に「三曰謀叛」とあり、その注に「謂謀背國從僞」、疏議に「有人謀背本朝、將投蕃國、或欲翻城從僞、或欲以地外奔」とあるように、国家に背いて偽政権や外国の側に寝返ったり、投降したりすることを指す。疏議に「或欲翻城從僞」とあるのは、城を率いて偽政権側に寝返ることであろうが、これは本簡の「以城・邑・亭・鄣反降諸侯」とまさに一致するので、整理小組がこの「反」を「叛」の意と解したのも、あるいはこのような唐律の概念を根拠としたものであろうか。しかし、漢律でも唐律のような「反」と「叛」の区別があったのかどうかは定かではない。なお、大庭脩氏が明らかにしたように、唐律の「謀反」及び「謀叛」にあたる罪は、漢律ではいずれも「不道」罪として処罰されていた(大庭一九八二、一三四~一三六頁)。不道とは、大庭氏によれば、国家・皇帝への反逆や、人倫の道に背く残虐行為などを指す。

「諸侯」について、整理小組は「漢初に分封された諸侯国を指す」とする。この解釈によれば、本条では諸侯国の漢王朝に対する反乱が想定されていることになるが、確かに前漢初期には諸侯国の反乱が相次いで発生しており、反乱側の諸侯国に投降したりするなどの行為を禁止し、処罰することは、現実の問題として大いに必要とされていたはずである。しかし、特に前漢初期の律が、戦国時代より徐々に集積されてきた秦律を、基本的には継承したものであると解すると、あるいは本条も、自国以外に敵対する諸侯国がいくつも存在していた、戦国時代の遺制かもしれない。というのも、睡虎地秦簡では、例えば「法律答問」に「可(何)謂熏(從貝)玉。熏(從貝)玉、者(諸)候(侯)客節(即)來使入秦、當以玉問王之謂殹(也)」(第五七三簡)とあるように、六国など秦以外の諸侯国を「諸侯」と呼んでいる例がいくつか見られるからである。なお、第一簡の注〔一〕では、二年律令の「二年」が高祖二年を指すとする張建国氏の説を紹介したが、もしこの説が正しければ、高祖二年はまだ楚漢抗争期であるから、本条の諸侯も秦滅亡後に楚の義帝によって封ぜられた、漢以外の諸侯国を指しているとも考えられる。

〔 二 〕乘 〔整理小組〕乗については、『漢書』高帝紀に「堅守乘城」とあり、その注に「乘、登也。謂上城而守也」とある。

〔 三 〕攻盜 〔案〕二年律令の「盜律」には「盜五人以上相與功(攻)盜、爲羣盜」(第六二簡)とあり、「攻盜」という語が見えるが、これについて整理小組は『漢書』巻九二游侠伝に「臧命作姦剽攻」とあり、その顔師古注に「攻謂穿窬而盜也」とあるのを引用している(張家山二〇〇一、一四三頁「盜五人以上」条注〔一〕)。「穿窬而盜」とは、『論語』陽貨篇に「子曰、色厲而内荏、譬諸小人、其猶穿窬之盜也與」とあり、その朱熹注に「穿、穿壁。窬、踰牆」とあるように、壁に穴を開けたり、牆を乗り越えて侵入する、いわゆる「こそどろ」の類を指す。しかし、前漢・劉向『説苑』指武篇に「所謂誅之者、非謂其晝則攻盜、暮則穿窬也」とあるように、「穿窬」は「攻盜」と対になる概念として用いられている。したがって、顔師古注の『漢書』本文に対する解釈の適否はともかく、整理小組がこれを「攻盜」の「攻」の解釈として援用するのは誤りである。拙稿で指摘したように、『後漢書』巻四六陳忠列伝には「忠獨以爲憂、上疏曰(中略)臣竊見元年以來、盜賊連發。攻亭劫掠、多所傷殺。夫穿窬不禁、則致彊盜。彊盜不斷、則爲攻盜。攻盜成羣、必生大姦」とあり、「攻盜」は「彊盜」よりもさらに害悪のはなはだしい盗賊とされているから、「攻盗はおそらく財物の強奪を生業とし、及びその目的を達成するために、殺傷なども行う武装犯罪集団を指しているものと思われるが、律の用語としての「攻盜」は、そのような集団による犯行を指すのであろう」(水間二〇〇二)。もっとも、本条では諸侯による「攻盜」とされているが、これは諸侯の軍による侵攻を犯罪になぞらえ、侮辱して呼んだものであろう。

〔 四 〕謀 〔案〕律の用語としての「謀」は、唐律の名例律の疏議に「謀、謂謀計」とあり、また名例律に「稱謀者、二人以上」とあるように、唐律では二人以上の者が共同で犯行を計画することを指し、また『晉書』巻三〇刑法志所載の西晉・張斐「律表」でも「二人對議、謂之謀」とあり、二人(以上)よる「對議」とされているが、このような定義が秦律・漢律にもあてはまることは、冨谷至氏が明らかにした通りである(冨谷一九八三)。

〔 五 〕腰斬 〔整理小組〕腰斬は死刑の一種であり、処刑するときに腰を斬るものである。〔案〕かつて布目潮渢氏は、『漢書』の謀反に関する記述を集めて分析したうえで、前漢の武帝期以降は、謀反罪は腰斬に処されていたが、それより前の時代では、そのような原則が確立されておらず、謀反罪に対して討誅ないし死刑が行われていたと述べた。しかし、拙稿で指摘したように、本条では明らかに謀反罪が腰斬とされているから、このような原則は早くも二年律令の段階で確立されていたことが明らかになった(水間二〇〇二)。

〔 六 〕父母~棄市 〔整理小組〕同産については、『後漢書』明帝紀の注に「同産、同母兄弟也」とある。棄市とは死刑の一種であり、市で殺すものである。〔案〕同産について、整理小組が挙げている『後漢書』李賢注によれば、同産は母を同じくする兄弟を指すことになる。しかし、一九三○~三一年に内蒙古自治区居延地方で出土した漢代の簡牘群(いわゆる「居延旧簡」)には、古賀登氏が指摘するように、「男同産」・「女同産」という語が見えるから、同産が兄弟のみならず、姉妹をも含むことは明らかである(古賀一九八〇、三二一頁注(66))。また、冨谷氏は『漢書』巻九八元后伝に「太后同産唯曼蚤卒」とあり、その張晏注に「同父則爲同産、不必同母也」とあることから、父を同じくする兄弟姉妹を指すとする(冨谷一九九八、二六二頁)。確かに、張晏注が右に続いて「上言唯鳳・崇同母也」と述べている通り、元后伝本文の上文には「唯鳳・崇與元后政君同母」とあり、王太后と母を同じくする者は王鳳と王崇のみであったことが明記されているから、太后の同産とされる王曼は、太后の兄弟ではあるものの、太后とは母を異にしていたはずである。それゆえ、たとえ母を異にする兄弟姉妹であっても、父を同じくする者であれば、同産と呼ばれていたことが知られよう。

「父母・妻子・同産無少長皆棄市」という処罰は、『漢書』巻四九鼂錯伝、巻八一孔光伝にも見え、いずれも「大逆無道」にあたる罪に対してこのような処罰を行うべきものとされている。また、『漢書』巻五景帝紀三年一二月条の如淳注にも「律、大逆不道、父母・妻子・同産皆棄市」という漢律の条文が引用されている。大逆無道とは「大逆不道」とも呼ばれ、大庭脩氏によれば、劉氏の天下を覆し、漢の国家体制を変更せんとする諸行為を指すが(大庭一九八二、一二五~一三六頁、一四〇頁)、本条の「以城・邑・亭・鄣反降諸侯」以下の諸行為はいずれもこれに該当すると考えられる。

 連坐刑として父母・妻子・同産を処罰するのは、いわゆる「三族刑」と呼ばれるものであるが、『漢書』巻二三刑法志に「至高后元年、乃除三族罪・妖言令」とあるのによれば、三族刑は高后元年に廃止されている。それゆえ、一見すると、本条のように二年律令において三族刑が定められているのは、刑法志の記述と矛盾するごとくであるが、冨谷至氏は刑法志の記述について、父母・妻子・同産の三族に黥・劓・斬趾など複数の肉刑を加えたうえで死刑に処するという、秦以来行われてきた「夷三族」が高后元年に廃止されたのであって、それ以後の三族刑は漢独自のものであったとする(冨谷一九九八、二五六~二六二頁)。したがって、冨谷氏の解釈に従えば、本条で三族刑が定められているのも、刑法志の記述と矛盾しなくなる。

「無少長」とは、「年齢を問わず」ということであろう。秦律・漢律においては、堀毅氏が史料を集めているように、年少者や高齢者の刑罰を減免する規定が設けられていたが(堀一九八八)、「無少長」はこのような刑罰減免措置の適用を認めないことを指すと思われる。なお、年少者・高齢者に対する刑罰減免規定は、二年律令にも散見する。

〔 七 〕其坐謀反者 〔整理小組〕坐とは、連坐のことである。

〔 八 〕偏捕 〔案〕「偏捕」は二年律令に散見する。『説文』人部に「偏、頗也」とあるのによれば、「偏」には「頗」の意があり、しかも例えば二年律令の盗律に「相與謀劫人、劫人、而能頗捕其與、若告吏、吏捕頗得之、除告者罪、有(又)購錢人五萬。所捕告得者多、以人數購之。而責其劫人所得臧(贓)。所告毋得者、若不盡告其與、皆不得除罪∠。諸予劫人者錢財、及爲人劫者、同居智(知)弗告吏、皆與劫人者同罪。劫人者去、未盈一日、能自頗捕、若偏告吏、皆除」(第七一簡~七三簡)とあるように、二年律令には「頗捕」という語が散見する。さらに、この「頗捕」は「偏捕」と同様に、これを行えば連坐刑などの刑罰を免れるものとされているから、両者を同義と見ることもできそうである。しかし、右の盗律には「能自頗捕、若偏告吏」とあり、「頗」と「偏」が一つの文の中で使われているから、むしろ「頗捕」と「偏捕」は区別して使われていると考えられる。整理小組は「頗捕」の「頗」について、『広雅』釈詁三に「頗、少也」とあるのを挙げ、「少部分」の意とし、それに対して「偏」については、「徧」の通仮字と解している。『集韻』平声仙韻に「偏」について、「亦作徧」とあるように、「偏」と「徧」はしばしば通用されるが、『説文』彳部に「徧、帀也」、『淮南子』主術訓の高誘注に「徧、猶盡也」、『広韻』去声線韻に「徧、周也」とあるように、「徧」にはことごとく、あまねくなどの意がある。それゆえ、「頗捕」が犯人の一部を捕えることを指すのに対し、「徧捕」とは全ての犯人を捕らえることであろう。

〔 九 〕若先告吏 〔整理小組〕若は、或のことである。


 考 察 

 一九七九年に甘粛省敦煌県馬圏湾の漢代烽燧遺址から出土した、前漢中期~王莽新の頃のものと見られる簡牘群(以下「馬圏湾漢簡」と呼ぶ)の中には、「●捕律、亡入匈奴・外蠻夷、守棄亭・鄣・逢(烽)頻者、不堅守降之、及從塞徼外來絳(降)而賊殺之、皆要斬。妻子耐爲司寇、作如」(第九八三簡)とあるように(敦煌漢簡一九九一)、「捕律」の条文が引用されている。これによれば、二年律令の第一簡・二簡と同様に、亭・鄣・烽頻の守備にあたりながらこれを放棄し、堅守せずに投降した場合には、要斬の刑に處するとされている。ただし、二年律令第一簡・二簡では連坐刑として、父母・妻子・同産が棄市の刑に處されているのに対し、この馬圏湾漢簡では妻子が「耐爲司寇」とされている。


 書き下し文 

城・邑・亭・鄣を以て反して諸侯に降り、及び城・亭・鄣を守乘し、諸侯の人來りて攻盜するに、堅守せずして之を棄去し、若しくは之に降り、及び謀反する者は、皆な要斬とす。其の父母・妻子・同産、少長と無く皆な棄市とす。其れ謀反に坐する者は、能く徧く捕え、若しくは先に吏に告すれば、皆な坐する者の罪を除く。


 通 釈 

城・邑・亭・鄣を率いて、離反して諸侯に投降した者、及び城・亭・鄣を守りながら、諸侯の軍隊がやってきて狼藉をはたらいた場合、城・亭・鄣を堅守せずに放棄し、もしくは諸侯に降伏した者、及び謀反を行った者は、いずれも腰斬の刑に処する。その父母・妻子・同産は年齢を問わず、全て棄市の刑に処する。謀反に連坐する者は、謀反の罪を犯した者をことごとく捕えるか、もしくは先に官吏に対して告発すれば、連坐する者全ての罪を免除する。


○第三簡

 原 文 

 來誘及爲間者磔亡之


 校訂文 

 ……來誘及爲間者、磔〔一〕。亡之……


 注 釈 

〔 一 〕來誘~磔 〔整理小組〕本簡の写真はいったん撮影した後、追加して撮影したものであり、現物では「來誘及」が見える。磔は死刑の一種である。『漢書』景帝紀に「磔、謂張其尸也」とある。この簡の残失部分については、以下の各簡が参考になる。すなわち、二年律令の第一五〇簡には「捕從諸侯來爲間者」とあり、また奏讞書の第二二簡には「即從諸侯來誘也」、第二四簡には「以亡之諸侯論」とある。〔案〕「來誘」は整理小組が挙げているように、奏讞書にも見える。奏讞書では、斉国臨淄県の獄史闌が、斉国出身の田氏の女子南を連れて、関中から臨淄へと逃亡することが「來誘」の罪にあたるとされているが、これについて中国の歴史と地理研究会は、「他国(諸侯国)の人物を自国に誘い、亡命させることか」と述べている(中歴地研一九九六、二二頁注[14])。

    「爲間者」は、睡虎地秦簡「日書」乙種の「盜」条にも「丙亡、爲間者、不寡夫乃寡婦」(第一一五〇簡)と見え、これについて睡虎地秦墓竹簡整理小組は「盜」を指すとする(睡虎地一九九〇、釈文註釈一四頁注〔一四〕)。「間」は、『爾雅』釈言に「間、俔也」、三国魏・張揖『広雅』釈詁三に「間、覗也」、『後漢書』巻一光武帝紀下建武一一年条の李賢注に「間、諜也。謂伺候間隙也」とあるように、うかがう・のぞくなどの意があるので、「爲間者」とはこそどろ・窃盗の類を指すのであろう。

  「磔」は処刑した後、死体をさらしものにする刑罰。「磔」に関する従来の諸説については、早稲田大学秦簡研究会による整理がある(早秦簡研一九九八)。


 書き下し文 

 ……來誘及び間を爲す者は、磔とす。亡之……


 通 釈 

……來誘及び窃盗を行った者は、磔の刑に処する。亡之……


○第四簡五簡

 原 文 

賊燔城官府及縣官積冣棄市賊燔寺舍∠民室屋廬舍積冣黥爲城旦舂∠其失火延燔之罰金四兩責 四

所燔郷部官嗇夫吏主者弗得罰金各二兩  五


 校訂文 

賊燔城・官府及縣官積冣(聚)〔一〕、棄市。賊燔寺舍∠・民室屋・廬舍・積冣(聚)〔二〕、黥爲城旦舂∠〔三〕。其失火延燔之、罰金四兩〔四〕、責所燔〔五〕。郷部・官嗇夫・吏主者弗得〔六〕、罰金各二兩。


 注 釈 

〔 一 〕賊燔~積冣 〔整理小組〕賊燔城とは、故意に城邑を焼くことである。官府とは、官衙のことである。県官とは、「官方」(訳者注:官の側)を指す。積聚については、『漢書』荊燕呉伝に「燒其積聚」とあり、その注に「倉廩芻稾之屬」とある。〔案〕「賊燔」は、他にも次のような史料に見える。すなわち、一九七二~八二年、内蒙古自治区の居延地方で出土した漢代の簡牘群(いわゆる「居延新簡」)の中には、

朔乙酉、萬歳候長宗敢言之、官下名捕詔書曰、清河、不知何七男子、共賊燔男子李

強盜兵馬及不知何男子凡六十九人、黠謀更□□□怨攻盜賊燔人舍、攻亭(EPT五:一六)

とあり(居延新簡一九九四)、また二〇世紀初めにスタインが疏勒河流域で発見した簡牘群の中には、「當時賊燔秿隨城臧滿二百廿以不知何人發覺種八□」(第一六七六簡)とあり(敦煌漢簡一九九一)、張斐「律表」には「賊燔人廬舍積聚、盜臧五匹以上、棄市。即燔官府積聚盜、亦當與同」とある。「賊」は秦律・漢律の法律用語であり、フルスウェ氏が明らかにしたように、殺傷などを故意に行うことを指し(フルスウェ一九五五、二五三~二五七頁、同一九八五、一三二頁D三五注一)、しばしば「賊殺」・「賊傷」などという形で使われる。したがって、賊燔とは故意に焼くこと、つまり放火することを指すと考えられる。ただし、フルスウェ氏は、法律用語としての「賊」はもっぱら殺傷について用いられる語であり、右の疏勒河流域出土漢簡の「賊燔」はその用例からはずれるものであって、この場合「賊」は"destructively"(破壊的に)の意であるとする(フルスウェ一九五五、二五七頁)。しかし、賊燔は、本条では明らかに「失火」のいわば対義語として使われているから、賊燔の「賊」も故意の意と解して問題なさそうである。確かに、本条は建物や収穫物に対する放火を処罰するものであって、人を殺傷することではないが、放火が人を殺傷する危険性のある犯罪であるから、「賊」という語が使われているのかもしれない。

「縣官」について、整理小組は官の側を指すとする。確かに、例えば『史記』巻五七絳侯周勃世家に「居無何、條侯子爲父買工官尚方甲楯五百被可以葬者。取庸苦之、不予錢。庸知其盜買縣官器、怒而上變告子」とあるのについて、その『索隠』は「縣官謂天子也。所以謂國家爲縣官者、夏官王畿内縣即國都也。王者官天下、故曰縣官也」と述べ、「天子」・「國家」を指すとする。しかし、文献や出土文字資料中の法制史料では、「道官」や「縣道官」といった言葉も使われている。また、二年律令の「行書律」に「諸獄辟書五百里以上、及郡縣官相付受財物當校計者書、皆以郵行」(第二七六簡)、『続漢書』礼儀志上に「立春之日、夜漏未盡五刻、京師百官皆衣靑衣、郡國縣道官下至斗食令史皆服靑幘、立靑幡、施土牛耕人于門外、以示兆民」とあるように、「郡縣官」や「郡國縣道官」という言葉も見える。したがって、県官の「縣」は「郡」・「國」・「道」などと同様に、行政単位の名称を指すことになる。それゆえ、少なくとも法制用語としての県官は、あくまでも県に限定されるものであって、官の側という包括的な意味で使われていたとは考えがたい。県官とは、おそらく県に属する官府の総称であろう。

〔 二 〕賊燔寺舍~積冣 〔整理小組〕寺舎については、『後漢書』馬援伝の注に「寺舍、官舍也」とある。廬舎については、『漢書』食貨志に「餘二十畝以爲廬舍」とあり、その注に「廬、田中屋也」とある。〔案〕「賊」は、整理小組の釈文ではこれを欠いているが、図版によれば明らかに「賊」字が記されているので、補った。

「室」~「黥」までは、竹簡の左半分が失われているが、おそらく整理小組の釈文は右半分の残画や文脈から判断したものであろう。

〔 三 〕黥爲城旦舂 〔整理小組〕黥は肉刑の一種であり、額を刺して墨で埋める。城旦舂は刑徒の名であり、男は城旦、女は舂と呼ぶ。

〔 四 〕罰金四兩 〔整理小組〕金については、『漢書』食貨志に「黄金一斤値萬錢」とあり、その注に「諸賜言黄金者皆與之金、不言黄者、一金與萬錢也」とある。この説によれば、罰金四両は二千五百銭を出すことになる。

〔 五 〕責所燔 〔案〕「責所燔」は、失火によって破損した建築物や収穫物の賠償を、犯人に請求するということであろう。『正字通』貝部が「責」について「本作朿(從貝)」と述べているように、「責」の本字は「朿(從貝)」であるが、『説文』貝部に「朿(從貝)、求也」、南唐・徐鍇『説文解字繋伝』巻一二に「朿(從貝)、求也。從貝朿聲。臣鍇曰、責者、迫迮而取之也」とあり、「朿(從貝)(責)」には求める、強制的にとる、などの意がある。二年律令や睡虎地秦簡では、「責」はしばしばこのように損害賠償や不当利得を請求する意として用いられており、他にも例えば二年律令の「襍律」に「擅賦斂者、罰金四兩、責所賦斂償主」(第一八五簡)とある通りである。ただし、整理小組は本条の「責」を「債」の通仮字と解している。確かに「責」と「債」はしばしば通用され、例えば睡虎地秦簡「秦律十八種」の「司空律」に「有辠以貲贖及有責(債)於公、以其令日問之」(第二〇〇簡)とあるように、睡虎地秦簡や二年律令では、「責」が明らかに「債」(債務を負う)の通仮字として用いられている例もある。しかし、本条の「責」を「債務を負う」の意と解すると、文脈にそぐわなくなるであろう。もっとも、『広韻』去声卦韻に「債、徴財」とあり、「債」には「責」と同様に、財物をとり立てるという意味もあるが、既に「責」にそのような意があれば、わざわざ「債」の通仮字と解する必要はない。

 ちなみに、睡虎地秦簡の法律答問には「舍公官(館)、旞火燔其舍、雖有公器、勿責。●今舍公官(館)、旞火燔其叚(假)乘車馬、當負不當出。當出之」(第五二九簡)とあり、「公館」に居住する者が、失火によってその家屋を焼いてしまった場合、その家屋の中にあった官有の器物については、損害賠償責任を負わないが、借用中の車馬を焼いた場合には賠償責任を負うものとされている。

〔 六 〕郷部 〔案〕「郷部・官嗇夫」の「郷部」は「郷部嗇夫」のことであり、下に「官嗇夫」とあるから、「嗇夫」が省略されているのであろう。二年律令には「郷部嗇夫」が散見する。例えば、「戸律」に「恆以八月令郷部嗇夫・吏・令史相襍案戸籍、副臧(藏)其廷。有移徙者、輒移戸及年籍爵細徙所、并封。留弗移、移不并封、及實不徙數盈十日、皆罰金四兩。數在所正・典弗告、與同罪。郷部嗇夫・吏主及案戸者弗得、罰金各一兩」(第三二八簡~三三〇簡)とあり、郷部嗇夫による戸籍の管理について、いくつか条文が見られる。『漢書』巻一九百官公卿表上に「郷有三老・有秩・嗇夫・游徼。(中略)嗇夫職聽訟、收賦税」とあるのによれば、郷には嗇夫が置かれ、訴訟の受理や賦税の徴収にあたっていたとされているが、戸籍の管理は少なくとも賦税の徴収と密接にかかわる職務であるから、あるいは百官公卿表でいう郷の嗇夫も、この郷部嗇夫を指すのかもしれない。

 なお、睡虎地秦簡には、「郷部嗇夫」という語は見えないが、工藤元男氏が従来の学説を整理しているように、「秦律十八種」の「倉律」に「入禾倉、萬石一積、而比黎之爲戸。縣嗇夫若丞及倉・郷相雜以印之」(第八八簡)とある「郷」を「郷嗇夫」の簡称と解する説もあった(工藤一九九八、三六一頁注(10))。秦に郷嗇夫が置かれていたのか否かは大きな問題であったが、秦の制度をかなりの部分において受け継いだものと見られる二年律令に、郷部嗇夫に関する規定が設けられているということは、秦にも郷(部)嗇夫が置かれていた可能性を示唆するものであろう。

「郷部」という語は、文献史料や出土文字資料に散見する。睡虎地秦簡「秦律十八種」に「百姓居田舍者、毋敢酤(從皿)(酤)酉(酒)。田嗇夫・部佐謹禁御之。有不從令者、有辠。 田律」(第七九簡)とある「部佐」の「部」について、睡虎地秦墓竹簡整理小組は「漢代では郷の轄区を郷部、亭の轄区を亭部と称した」と述べている(睡虎地一九九〇、釈文註釈二二頁注〔二〕)。確かに、『広韻』上声厚韻に「部、署也」とあるのによれば、「部」には「署」すなわち持ち場の意があるので、睡虎地秦墓竹簡整理小組が指摘するように、郷部とは郷の管轄区域を指すのであろう。

「官嗇夫」は睡虎地秦簡に頻見する。嗇夫については特に睡虎地秦簡の出土以降、盛んに研究が行われてきたが、この官嗇夫については、「縣嗇夫」より下のさまざまな嗇夫の総称とする点で一致している。


 考 察 

 本条は、放火・失火について定めたものである。放火・失火については、『墨子』号令篇にも「失火者、斬。其端失火以爲事者、車裂」という法令のごときものが見え、失火した者は「斬」、故意に失火せしめ、それによって悪事をはたらいた者は「車裂」の刑にそれぞれ処するものとされている。号令篇などを含む『墨子』城守各篇については、戦国時代の秦の制度と共通する部分の多いことが指摘されているが(渡辺一九七三、李一九九四)、これを本条と比べると、失火の罪は、号令篇では「斬」であるのに対し、本条ではわずかに罰金四両の刑にとどめられている。号令篇の「斬」が腰斬を指すのか、それとも斬首をさすのかは判然としないが、死刑であったことは確かであろう。それゆえ、失火については、号令篇の方が本条よりもはるかに厳しい処罰を定めていたことになるが、それは号令篇が敵軍に城邑を包囲された状況下での法令であり、平時よりも特に厳しい規律維持が必要とされていたからと考えられる。睡虎地秦簡の法律答問には、「旞火延燔里門、當貲一盾。其邑邦門、貲一甲」(第五三〇簡)とあり、失火によって「里門」や「邑邦門」を延焼した場合、それぞれ「貲一盾」(たて一枚分に相当する金銭を納入する刑罰)・「貲一甲」(よろい一つ分に相当する金銭を納入する刑罰)に処するものとされているが、このように『墨子』城守各篇との共通性が指摘されている秦律においても、比較的軽い刑罰であったことが知られる。


 書き下し文 

城・官府及び縣官の積聚を賊燔すれば、棄市とす。寺舍∠・民の室屋・廬舍・積聚を賊燔すれば、黥して城旦舂と爲す∠。其れ失火して之を延燔すれば、罰金四兩とし、燔く所を責む。郷部・官嗇夫・吏主者得えざれば、罰金各〃二兩とす。



 通 釈 

城・官府及び縣官の蓄えた収穫物を故意に焼けば、棄市の刑に処する。官舎や民の家屋・廬舎(田畑の中に建てられた小屋)・収穫物を故意に焼けば、黥城旦舂の刑に処する。失火によって延焼した場合には、罰金四両の刑に処し、焼いたものの賠償を請求する。郷部嗇夫・官嗇夫・担当官吏が犯人を捕えなければ、それぞれ罰金二両の刑に処する。


      参考文献


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渡辺一九七三    渡辺卓「墨家の兵技巧書について」(同氏『古代中国思想の研究』所収、創文社、一九七三年)


             (原載『長江流域文化研究所年報』創刊號、二〇〇二年七月)


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