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張家山第二四七号漢墓竹簡訳注(二)

2004年03月13日 22:08 早稲田大学簡帛研究会 点击:[]

序 言


 前号では二年律令「賊律」のうち、第一簡~五簡の訳注を発表した。本号ではこれに引続き賊律の第六簡~八簡、及び新たに「史律」の訳注を掲載する。訳注の凡例については前号を参照されたいが、今回新たに次の凡例を加える。

〔凡例(二〇〇三年十月補)〕

 一、二本以上の断簡となっていたのを、整理小組が一簡分として復元している場合、 原 文 では断簡の掇合部分を表すものとして、仮に「←→」という記号を用いた。


 また、前号では「研究の手引き」の中で、二年律令について論じている先行研究を紹介したが、その後も関連する論文がたくさん発表された。そこで、以下に列挙したのは、前号で紹介したものを除き、現在までに発表されている二年律令関連の論文などである(氏名による五十音順)。

〔二年律令関連論文目録(二〇〇三年十月補)〕

 尹在碩    「睡虎地秦簡和張家山漢簡反映的秦漢時期後子制和家系継承」(『中国歴史文物』二〇〇三年第一期)

 王彦輝    「从張家山漢簡看西漢時期私奴婢的社会地位」(『東北師大学報』哲学社会科学版二〇〇三年第二期)

 王子今    「張家山漢簡《二年律令》所見塩政史料」(『文史』二〇〇二年第四輯)

 王子今・范培松「張家山漢簡《秩律》四「公主」説」(周天游主編『陝西歴史博物館館刊』第九輯、三秦出版社、二〇〇二年)

 王子今・劉華祝「説張家山漢簡《二年律令・津関令》所見五関」(『中国歴史文物』二〇〇三年第一期)

 大西克也   「古代漢語における地域的差異と相互交流――秦楚の出土資料を中心に――」(『長江流域文化研究所年報』第二号、二〇〇三年)

 大庭脩    「張家山二年律令簡中の津関令について」(『史料』第一七九号、二〇〇二年)

 邢義田    「従張家山漢簡〈二年律令〉論秦漢的刑期問題」(『台大歴史学報』第三一期、二〇〇三年)

 高大倫    「張家山漢簡《田律》与青川秦木牘《為田律》比較研究」(張顕成主編『簡帛語言文字研究』第一輯、巴蜀書社、二〇〇二年)

 洪淑湄    「漢代之賜杖」(『興大人文学報』第三三期、二〇〇三年)

 高敏     「漫談《張家山漢墓竹簡》的主要価値与作用」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

        「論西漢前期芻・稾税制度的変化発展――読《張家山漢墓竹簡》札記之二」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第四期)

        「从《二年律令》看西漢前期的賜爵制度」(『文物』二〇〇二年第九期)

 小嶋茂稔   「漢代の国家統治機構における亭の位置」(『史学雑誌』第一一二編第八号、二〇〇三年)

 湖南省文物考古研究所・中国文物研究所「湖南張家界古人堤簡牘釈文与簡注」(『中国歴史文物』二〇〇三年第二期)

 崔永東    『簡帛文献与古代法文化』(湖北教育出版社、二〇〇三年)

 重近啓樹   「『張家山漢墓竹簡〔二四七号墓〕』の刊行によせて」(『日本秦漢史学会会報』第三号、二〇〇二年)

 謝桂華    「《二年律令》所見漢初政治制度」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

 朱紹侯    「西漢初年軍功爵制的等級画分――《二年律令》与軍功爵制研究之一」(『河南大学学報』社会科学版二〇〇二年第五期)

        「呂后二年賜田宅制度試探――《二年律令》与軍功爵制研究之二」(『史学月刊』二〇〇二年第一二期)

        「从《二年律令》看与軍功爵制有関的三箇問題――《二年律令》与軍功爵制研究之三」(『河南大学学報』社会科学版二〇〇三年第一期)

        「从《二年律令》看漢初二十級軍功爵的価値――《二年律令》与軍功爵制研究之四」(『河南大学学報』社会科学版二〇〇三年第二期)

 徐世虹    「対漢代民法淵源的新認識」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

 臧知非    「漢代田税〝以頃計征〟新証――兼答李恒全同志」(『江西師範大学学報』哲学社会科学版二〇〇三年第三期)

 曹旅寧    『秦律新探』(中国社会科学出版社、二〇〇二年)

 張小鋒・沈頌金「張家山漢墓竹簡研究述評」(『中国史研究動態』二〇〇三年第二期)

 陳偉     「張家山漢簡《津関令》渉馬諸令研究」(『考古学報』二〇〇三年第一期)

 冨谷至    「亭制に関する一考察――漢簡に見える亭の分析――」(冨谷至編『辺境出土木簡の研究』朋友書店、二〇〇三年)

        『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』(岩波書店、二〇〇三年)

 藤田勝久   「中国古代史における秦、巴蜀、楚――長江流域の出土資料と地域文化――」(『長江流域文化研究所年報』第二号、二〇〇三年)

 彭浩     「《津関令》的頒行年代与文書格式」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

        「読張家山漢簡《行書律》」(『文物』二〇〇二年第九期)

 水間大輔   「秦律・漢律における殺人罪の類型――張家山漢簡「二年律令」を中心に――」(『史観』第一四八冊、二〇〇三年)

        「湖南張家界古人堤遺址出土漢簡に見える漢律の賊律・盗律について」(『長江流域文化研究所年報』第二号、二〇〇三年)

 山田勝芳   「張家山第二四七号漢墓竹簡「二年律令」と秦漢史研究」(『日本秦漢史学会会報』第三号、二〇〇二年)

 楊建     「張家山漢簡《二年律令・津関令》簡釈」(丁四新主編『楚地出土簡帛文献思想研究(一)』湖北教育出版社、二〇〇二年)

 好並隆司   「張家山漢簡の律文における「宦皇帝」について」(『別府大学大学院紀要』第五号、二〇〇三年)

 李学勤    「張家山漢簡研究的幾箇問題」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

 李均明    「張家山漢簡奴婢考」(『国際簡牘学会会刊』第四号、蘭台出版社、二〇〇二年)

        「《二年律令・具律》中応分出《囚律》条款」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第三期)

        「張家山漢簡所反映的適用刑罰原則」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版二〇〇二年第四期)

        「簡牘所反映的漢代訴訟関係」(『文史』二〇〇二年第三輯)

        「張家山漢簡《収律》与家族連坐」(『文物』二〇〇二年第九期)

        「張家山漢簡与漢初貨幣」(『中国文物報』二〇〇二年一一月二二日。後に『中国銭幣』二〇〇三年第二期再録)

 劉守芬・王洪波・姜涛・陳新旺「対中国古代廉政法律制度的歴史考察」(『北京大学学報』哲学社会科学版二〇〇三年第三期)

 劉篤才    「漢科考略」(『法学研究』二〇〇三年第四期)

 廖伯源    「漢初県吏之秩階及其任命――張家山漢簡研究之一」(『中国中古史研究』第一期、二〇〇二年。後に『社会科学戦線』二〇〇三年第三期再録)

 林炳徳    「『張家山漢簡』「二年律令」의 刑罰制度(Ⅰ)――肉刑과 罰金刑・贖刑――」(『中国史研究』(韓国)第一九輯、二〇〇二年)

 早稲田大学簡帛研究会「張家山第二四七号漢墓竹簡訳注(一)――二年律令訳注(一)――」(『長江流域文化研究所年報』創刊号、二〇〇二年)

        「張家山第二四七号漢墓竹簡訳注(二)――二年律令訳注(二)――」(『長江流域文化研究所年報』第二号、二〇〇三年)


      賊律訳注2

                                         担当 水 間 大 輔


○第六簡~八簡

 原 文 

 船人渡人而流殺人耐之船嗇夫吏主者贖耐其殺馬牛及傷人船人贖耐船嗇←→夫吏贖䙴其敗亡     六

 粟米它物出其半以半負船人舳艫←→負二徒負一←→其可紐毄而亡之盡負之舳艫亦負二徒負一罰船嗇  七

 夫吏金各四兩流殺傷人殺馬←→牛有亡粟米它物者不負                     八


 校訂文 

船人渡人而流殺人〔一〕、耐之〔二〕。船嗇夫・吏主者贖耐〔三〕。其殺馬・牛、及傷人、船人贖耐。船嗇夫・吏贖䙴(遷)〔四〕。其敗亡粟・米・它物、出其半〔五〕、以半負船人〔六〕。舳艫負二〔七〕、徒負一。其可紐毄(繋)而亡之、盡負之。舳艫亦負二、徒負一。罰船嗇夫・吏金各四兩。流殺傷人、殺馬・牛、有(又)亡粟・米・它物者、不負。


 注 釈 

〔 一 〕流殺 〔整理小組〕流殺とは、溺死させること。

〔 二 〕耐 〔整理小組〕耐とは刑罰の一種であり、『漢書』高帝紀注引の応劭の言に「輕罪不至于髠、完其耏鬢、故曰耏」(訳者注:整理小組の原文では「于」を「於」、「耏」を「耐」に作るが、『漢書』の諸本ではいずれも「于」・「耏」に作るので、改めた)とある。〔案〕耐が具体的にいかなる刑罰を指すのかについては、従来から争いがあり、若江賢三氏がその争点を詳しく紹介しているが(若江一九七八)、一九七五年に出土した睡虎地秦簡には耐が頻見するため、それ以降再び論争が盛んになった。それらの研究によれば、耐は一般にひげを剃り落とす刑罰と解されているが、堀毅氏は、後漢以降は労役刑全般を指すようになったとする(堀一九八八、一六三~一六五頁、三一三頁)。それに対して、冨谷至氏は既に秦律の段階から、「実際には顔毛をそることがおこなわれたにしろ」、肉刑を施さず、労役を伴う比較的軽い刑の総称として用いられていたとする(冨谷一九九八、三三~三七頁)。また、若江氏は、「秦律における耐罪とは、(髭を剃る剃らないといった語源的な意味含とは必ずしも関係なく、)完刑以上の刑徒に伴う枸櫝欙杕といった身体拘束を伴わない、従って完刑よりも一ランク軽い労役刑であった」と述べている(若江一九九二)。

 耐は「耐爲隸臣妾」などのように、他の労役刑と組み合わせられる例もあれば、本条に「耐之」とあるように、単独で用いられる例もあるが、これについても争いがある。すなわち、劉海年氏、栗勁氏は、耐は主刑として単独で科される場合もあれば、附加刑として労役刑と組み合わせて科される場合もあるとする(劉一九八一、栗一九八五、二四九~二五二頁)。それに対して、徐富昌氏は、耐はもっぱら附加刑であり、主刑である労役刑と必ず組み合わせて科されるものであって、律文の中で単独で使用されている場合でも、「耐爲隸臣妾」の省略であるとする(徐一九九三、二七二~二八〇頁)。

〔 三 〕贖耐 〔整理小組〕贖耐とは、下文の贖遷と同じく贖刑の一種である。贖刑に関する規定については、『具律』を参照されたい。〔案〕整理小組のいう「具律」の条文とは、二年律令第一一九簡に「贖死、金二斤八兩。贖城旦舂・鬼薪白粲、金一斤八兩∠。贖斬・府(腐)、金一斤四兩。贖劓・黥、金一斤。贖耐、金十二兩。贖䙴(遷)、金八兩。有罪當府(腐)者、移内官、内官府(腐)之」とあるのを指すのであろう。これによれば、「贖耐」とは重さ十二両(約一八六グラム)の黄金を納入させることとされている(なお、当時の度量衡の単位が、現在の単位のいかほどに相当するのかは、本訳注では特に断りのない限り、丘一九九二によった)。

〔 四 〕船嗇~贖䙴 〔案〕「船嗇夫・吏」の「吏」は、上文に「船嗇夫・吏主者」とあるから、「吏主者」の「主者」が省略されているのであろう。下文に「罰船嗇夫・吏金各四兩」とあるのについても、同じことがいえよう。

    「贖遷」とは、注〔三〕で挙げた具律の条文によれば、黄金八両(約一二四グラム)を納入させること。

〔 五 〕出其半 〔案〕「出其半」の「出」は、超過するという意であろう。例えば、二年律令の「效律」には「出實多於律程、及不宜出而出、皆負之」(第三五二簡)とあるが、整理小組が指摘する通り、「出實多於律程」の「出」も超過するという意で使われている(張家山二〇〇一、一八〇頁「出實多於律程」条注〔一〕)。

〔 六 〕負 〔整理小組〕負とは、責任を負わせて賠償させること。

〔 七 〕舳艫 〔整理小組〕舳艫については、『漢書』武帝紀「舳艫千里」注引の李斐の言に「舳、船後持柂處。艫、船前頭刺櫂處也」(訳者注:整理小組の原文では「柂」を「柁」に作るが、『漢書』の諸本ではいずれも「柂」に作るので、改めた)とある。簡文では、おそらく船首と船尾の船員を指しているのであろう。〔案〕整理小組が挙げている李斐注によれば、「舳艫」の「舳」とは船尾にある、「柂」(かじ)を操作する場所、「艫」とは船首にある、「櫂」(かい)を操作する場所を指すという。『説文』舟部に「舳、(中略)一曰船尾。艫、一曰船頭」、『方言』巻九に「後曰舳。舳、制水也」とあるように、他にも舳が船尾、艫が船首を指すとする史料があるが、『説文』舟部の「艫」の説解に付された段注が指摘している通り、逆に舳が船首、艫が船尾を指すとする史料もある。しかし、それはともかく、このように舳艫が船首ないし船尾を指すことはあっても、整理小組が主張するように、船首・船尾の船員の意として用いられている例は、管見の限りでは存在しない。もっとも、本条では、舳艫は「徒」と並列されており、しかも損害賠償責任を負っているから、何らかの船員を指すことは確かである。

 そこで、注目すべきなのは、『説文』舟部の「舳」の説解に「漢律名船方長爲舳艫」とあり、漢律では「船方長」のことを舳艫と呼ぶと記されていることである。この「船方長」について段注は、「長」は「丈」に作るべきであるとしたうえで、右の『説文』の本文を、漢律では船上の一丈四方の広さを「一舳艫」と呼んだ、という意に解している。

 しかし、このように原文が誤っていると解さずとも、原文のままでも十分読めるのではないであろうか。すなわち、「船方の長」と読めば、「船方長」は「船方」の統率者・責任者の意となる。もっとも、このように解すると、「船方」の意が問題となるが、「方」は「舫」の通仮字として用いられているのであろう。両字が通用することは、高亨氏が用例を集めている通りである(高一九八九、三一二頁)。「船舫」とは、例えば『三国志』巻三二蜀書先主伝の章武二年条に「先主自猇亭還秭歸。收合離散兵、遂棄船舫、由歩道還魚復」などとあるように、船の汎称である。すると、『説文』のいう「船方(舫)長」とは、要するに船長のことを指すのであろう。したがって、二年律令の舳艫も船長を指すことになる。二年律令によれば、積荷を駄目にしたり失ったりした場合、舳艫は「徒」よりも重い賠償責任を負うものとされているが、船長という現場責任者であるからこそ、船長の指示のもとで働く徒よりも重い責任が課されていたのであろう。


 考 察 

 本条は船人が船を運航させる際に、人や馬牛を殺傷したり、積荷に損失を与えたりした場合、いかなる罪に問われ、またいかなる賠償責任を負うかについて定めたものである。曹旅寧氏も指摘するように、このような規定は唐律にも設けられており、唐律の雑律に「諸船人行船、茹船、寫漏、安標宿止不如法、若船栰應廻避而不廻避者、笞五十。以故損失官私財物者、坐贓論減五等。殺傷人者、減鬭殺傷三等。其於湍磧尤難之處、致有損害者、又減二等。監當主司、各減一等。卒遇風浪者、勿論」とある通りである。それゆえ、本条はまさに右の唐律の起源ともいうべきものであろう(曹二〇〇二、二六三頁)。なお、右の唐律の「船人」については、疏議に「船人、謂公私行船之人」とあり、公私を問わず船を運航させる者と定義されている。戦国秦漢期の文献史料においても、「船人」が特に公私のいずれかに限定されて用いられているようには見えない。すると、二年律令によれば、船人が罪を犯した場合、船嗇夫・吏主者といった官吏たちも責任を問われているが、私的に船舶業を営んでいる者に対しても、船嗇夫・吏主者が責任を負っていることになる。それゆえ、本条から、当時の国家は船舶業に対して、ある程度の管理・統制を加えていたらしいことが窺われる。ちなみに、右の唐律でも、「監當主司」が責任を負うものとされている。川村康氏によれば、「監當」とは監督にあたること、「主司」とは担当官の意であるから(律研一九九六、一七一頁「雑八三」注4)、担当官吏を意味する本条の「吏主者」にほぼ相当することになる。

 次に、本条によれば、船人が人を溺死させた場合、耐の刑に処するものとされている。しかし、人を溺死させた場合の全てが耐に処されるわけではなく、事故などによって溺死させた場合に限られたと考えられる。例えば、殺意をもって人を船から突き落とし、溺死させた場合、本条は適用されず、二年律令の「賊律」に「賊殺人、鬭而殺人、棄市∠」(第二一簡)と定められている「賊殺」(故意に殺害すること)の規定が適用され、「棄市」(市において公開で執行される、死刑の一種)の刑に処されたはずである。詳しくは拙稿を参照されたい(水間二〇〇三)。

 また、本条によれば、航行の際に馬や牛を殺害し、あるいは乗客を負傷させた場合、船人を贖耐に処するとされているが、これらについても殺人と同様のことがいえるであろう。例えば、殺意をもって馬や牛を船から突き落とし、溺死させた場合、本条は適用されず、二年律令の賊律の「賊殺傷人畜産、與盜同灋」(第四九簡)という規定が適用され、窃盗罪と同じ規定によって処罰されたと考えられる。

 なお、一九八七年四月~八月、湖南省張家界市古人堤の漢代房屋建築遺址で、後漢のものと見られる簡牘群が出土したが(湖南二〇〇三a)、その第二九簡正面は漢律の賊律・盗律の目録と考えられている。これは律の各条文で定められている犯罪の内容を、二字~五字程度で要約し、各条文の題目として列挙したものであるが、その中に「船人□人」と記されている。整理者も指摘する通り、まさに二年律令の本条を指すのであろう(湖南二〇〇三b)。


 書き下し文 

船人、人を渡して人を流殺せば、之を耐とす。船嗇夫・吏主者は贖耐とす。其れ馬・牛を殺し、及び人を傷つくれば、船人は贖耐とす。船嗇夫・吏は贖遷とす。其れ粟・米・它物を敗亡し、其の半ばを出づれば、半ばを以て船人に負わしむ。舳艫は二を負い、徒は一を負う。其れ紐繋す可くして之を亡わば、盡く之を負う。舳艫も亦た二を負い、徒は一を負う。船嗇夫・吏を罰すること金各〃四兩とす。人を流殺傷し、馬・牛を殺し、又た粟・米・它物を亡う者は、負わず。


 通 釈 

船人が船に人を乗せて航行する際、乗客を溺死させれば、耐の刑に処する。船嗇夫と担当官吏は贖耐とする。航行の際、馬や牛を殺し、及び人に傷を負わせた場合、船人は贖耐とする。船嗇夫と担当官吏は贖遷とする。航行の際、粟・米やその他のものを駄目にしたり、失ったりして、それが全体の半分を超えた場合、全体の半分を船人に賠償させる。その場合、船人のうち舳艫が三分の二、徒が三分の一を賠償する。航行の際、紐で繋ぐべきであったにもかかわらず、繋がなかったために失った場合、失った分の全てを船人が賠償する。その場合も、船人のうち舳艫が三分の二、徒が三分の一を賠償する。船嗇夫と担当官吏をそれぞれ罰金四両(黄金四両を納入)に処する。人を溺死させたり、傷つけたり、馬や牛を殺したりして、そのうえ粟・米やその他のものを失った者は、賠償責任を負わない。


      史律訳注1

                                              担当 森 和


○第四七四簡

 原 文 

 史卜子年∠十七歳學∠史卜祝學童學三歳學佴將詣大史大卜大祝郡史學童詣其守皆會八月朔日試之  四七四


 校訂文 

史・卜子年十七歳學〔一〕。史・卜・祝學童學三歳、學佴將詣大(太)史〔二〕・大(太)卜〔三〕・大(太)祝〔四〕、郡史學童詣其守〔五〕、皆會八月朔日試之〔六〕。


 注 釈 

〔 一 〕史卜~歳學 〔案〕本簡の律文については、次の第四七五~四七六簡を含め、『説文解字』叙に「尉律。學僮十七已上、始試。諷籀書九千字、乃得爲吏。又以八體試之。郡移太史、并課。最者以爲尚書史。書或不正、輒舉劾之」と引かれる尉律(以下『説文』所引尉律と略記)、および『漢書』巻三〇・芸文志・六芸略・小学家・小叙に「漢興、蕭何草律、亦著其法、曰、太史試學童、能諷書九千字以上、乃得爲史。又以六體試之、課最者以爲尚書・御史史書令史。吏民上書、字或不正、輒舉劾」と見える類似の記述(以下『漢志』所引漢律と略記)との関係が注目される。

「史・卜子」について、李学勤氏は『説文』所引尉律では「學僮」とのみあることから、当時すでに出自による制限が解除されていたことが知られ、また下文に「史・卜・祝學童」とあるのに対し、本条では「祝子」が含まれていないことから、祝の学童に対しては厳格な規制がなかったのかも知れない、とする(李二〇〇二)。史律は基本的に史・卜・祝を対象とする規定であるが、「史・卜年五十(五十)六、佐爲吏盈廿歳、年五十(五十)六、皆爲八更。六十(六十)爲十二【更】……(中略)……祝年盈六十(六十)者、十二更、踐更大(太)祝」(第四八四~四八六簡)とあるように、同じ律文の中で祝が史・卜とは別に扱われている例があり、本条においても同様に、祝子に対する年齢規定が別途定められていた可能性も考えられよう。

「十七歳」について、李学勤氏は本条を入学年齢の規定と見做し、それに対して『説文』所引尉律では受験年齢の規定であるのは、専門職を養成する「学室」制度がもはや存在せず、学童に対する一般教育に取って代わられたことを反映している、とする。またこの年齢と「傅籍(成年男子の戸籍登録)」との関連を指摘する。即ち、睡虎地秦簡「編年記」に「今元年、喜傅」(第八簡貳)、「三年、卷軍。八月、喜揄史」(第一〇簡貳)、「【四年】、□軍。十一月、喜□安陸□史」(第一一簡貳)とあり、墓主の喜が秦王政元年(前二四六)十七歳の時に戸籍に登録してから実際に「史」に任用されるまでちょうど三年であることを実例として挙げ、漢初は秦のこのような制度を沿用し、後になって傅籍年齢を二十歳あるいは二十三歳に改めた、とする(李二〇〇二)。しかし、二年律令「傅律」に「不更以下子年廿歳、夫∥(大夫)以上至五夫∥(大夫)子及小爵不更以下至上造年廿二歳、卿以上子及小爵夫∥(大夫)以上年廿四歳、皆傅之∠。……(中略)……疇官各從其父疇∠、有學師者學之」(第三六四~三六五簡)とあるように、爵制との関係では二十歳・二十二歳・二十四歳が傅籍年齢として規定されており、本条における「十七歳」という入学年齢と傅籍についての秦制との関連についてはまだ検討する余地があろう。ただし、「疇官各從其父疇、有學師者學之」とあるように、「學」ぶことと傅籍との間に何らかの関係があったであろうことは注意すべきである。

「學」について、睡虎地秦簡「秦律十八種」内史雑に「非史子殹、毋敢學∥(學)室、犯令者有辠(罪)」(第一九一簡)とあり、睡虎地秦墓竹簡整理小組が「学室とは簡文によれば一種の学校である。古代、文書事務を職とする史(小吏)は代々相伝され、幼い頃から読み書きの教育を受けていた」と注するように(睡虎地一九九〇、六三頁)、秦代には下級官吏の専門養成機関である「學室」が設けられており、張金光氏によれば、そこでは文字・各種事務処理・法令を中心とする教育が行われていた、とする(張一九八四)。本条も「史・卜子」がそのような場で専門教育を受けることを指すのかも知れない。

〔 二 〕學佴~大史 〔整理小組〕佴については、『爾雅』釈言に「佴、貳也」とある。学佴とは、指導する者である。〔案〕「學佴」について、整理小組が挙げる『爾雅』釈言の郭璞注に「佴、次、爲副貳」とあり、「佴」には副、補佐の意があるが、整理小組が読み替える「學貳」という語句は管見の限り、文献史料・出土文字資料中に用例が見当たらない。『続漢書』百官志二・太常条の劉昭注に引く『漢官』に「員吏八十五人。其十二人四科。十五人佐。五人假佐。十三人百石。十五人騎吏。九人學事。十六人守學事」、また同書太祝条の劉昭注に引く『漢官』に「員吏四十一人。其二人二百石。二人斗食。二十二人佐。二人學事。四人守學事。九人有秩。百五十人祝人。宰二百四十二人。屠者六十人」とあるように、漢代には「學事」あるいは「守學事」という官があり、本条の「學佴」はあるいはこの「學事」にあたるのかも知れない。「學佴」の職務については、本条の他に「不入史・卜・祝者、罰金四兩、學佴二兩」(第四八〇簡)とあるように、学童が課試に合格した後、史・卜・祝にならない場合にその責任を問われ、また「□□學佴敢擅䌛(徭)使史・卜・祝學童者、罰金四兩」(第四八四~四八六簡)とあるように、無断で学童を徭役に使うことを禁じていることから、学童を指導監督する立場であることは明らかである。なお、「佴」の上古復元音はńiǝg(去声)、「貳」はńied(去声)、「事」はtsǝg(去声)・dz'ǝg(去声)で、何れも理論上通仮し得ない(董一九四四、一二五・二二三・一二四頁)。

「大(太)史」については、『漢書』巻一九・百官公卿表上に「奉常。秦官。掌宗廟・禮儀。有丞。景帝中六年、更名太常。屬官有太樂・太祝・太宰・太史・太卜・太醫六令丞」とあるように、下文に並列される「太卜・太祝」とともに宗廟や儀礼を掌る奉常の属官で、『続漢書』百官志二・太史条に「太史。令、一人、六百石。本注曰、掌天時星暦。凡歳將終、奏新年暦。凡國祭祀・喪・娶之事、掌奏良日及時節禁忌。凡國有瑞應・災異、掌記之。丞、一人。明堂及靈臺丞、一人、二百石。本注曰、二丞、掌守明堂・靈臺。靈臺、掌候日月星氣。皆屬太史」とあるように、天文・暦法、国家の祭祀・冠婚葬祭における択日・禁忌、瑞祥災異の記録を管掌し、また様々な測候を掌る属官を統轄する。また二年律令「秩律」に「…(前略)…大行走士・未央走士・大(太)卜・大(太)史・大(太)祝・宦者・中謁者・大(太)官…(中略)…秩各六百石。有丞・尉者、半之」(第四五一~四六四簡)とあり、その官秩は『続漢書』の記載と一致する。

〔 三 〕大卜 〔案〕「大(太)卜」については、『漢書』巻一九・百官公卿表上に「景帝中六年、更名太祝爲祠祀、武帝太初元年、更曰廟祀、初置太卜」とあるが、この前段には注〔二〕で挙げたように「奉常。秦官」とあり、太卜が所属する奉常は秦代からの官であることから、太卜も同様に秦以来の官と推測され、『史記』巻一二八・亀策列伝の褚少孫の補文に「至高祖時、因秦太卜官」とある。更に今回、この二年律令が出土したことにより太卜が前漢初期からの正式な官であったことが出土文字資料からも裏付けられ、百官公卿表の記述が誤りであることが明らかとなった。その職務について明確な規定はないが、『周礼』春官・大卜条に「大卜。掌三兆之灋…(中略)…掌三易之灋…(中略)…掌三夢之灋…(中略)…以邦事作龜之八命…(中略)…以八命者、贊三兆・三易・三夢之占、以觀國家之吉凶、以詔救政」とあるように、亀卜や易、占夢など各種占卜の管掌とされる。また前引「秩律」(第四五一~四六四簡)に記される官秩は『続漢書』百官志二に「有太卜令、六百石、後省并太史」とある記載と一致する。

〔 四 〕大祝 〔案〕「大(太)祝」については、『続漢書』百官志二・太祝条に「太祝。令、一人、六百石。本注曰、凡國祭祀、掌讀祝及迎送神。丞、一人。本注曰、掌祝小神事」とあるように、太祝令は国家の祭祀における祝祷や神霊の送迎を管掌し、丞は令が扱わないような格の低い諸神に対する祝祷を管掌する。また前引「秩律」(第四五一~四六四簡)に記される官秩は『続漢書』の記載と一致する。

〔 五 〕郡史~其守 〔案〕「郡史」について、『史記』巻一二〇・汲鄭列伝・汲黯伝に「以數切諫、不得久留内、遷爲東海太守。黯學黄老之言、治官理民、好淸靜、擇丞史而任之」とあり、『集解』所引如淳注に「律、太守・都尉・諸侯・内史史各一人、卒史・書佐各十人。今總言丞史、或以爲擇郡丞及史使任之。鄭當時爲大農、推官屬丞史、亦是也」とあるように、郡には太守・都尉それぞれに史が一人置かれていたことになる。それに対して、池田雄一氏はこの律文の「史各一人」の「史」を「丞」の誤りとする厳耕望氏に従った上で、「郡の組織に諸侯・内史が含まれ、秦代の郡官である監が見えないことから、律の内容は前漢時、内史が三輔に改称される太初元年以前のもの」とする(池田二〇〇二、六〇九頁)。しかし、『漢書』巻七五・京房伝に「延壽字贛。贛貧賤、以好學得幸梁王、王共其資用、令極意學。既成、爲郡史、察舉補小黄令」とあり、焦延寿が小黄県の令に叙官される以前、郡の史であった例が見える。また「郡史學童」と「史・卜・祝學童」との区別については、本条の他、「大(太)史官之。郡、郡守官之。卜、大(太)卜官之。史・人〈卜〉不足、乃除佐」(第四八一簡)、「大(太)史・大(太)卜謹以吏員調、官史・卜縣道官、官受除事勿環…(中略)…史・人〈卜〉屬郡者、亦以從事」(第四八二~四八三簡)とあるように、史には太史の属僚としての史と郡守の属僚としての史の二種類あり、また卜についても太卜が叙任し、その下に所属するものと郡に所属するものの二種類あったと解される。

〔 六 〕皆會~試之 〔整理小組〕朔とは、毎月の第一日目である。〔案〕「八月」という試験期日について、『漢書』巻一・高帝紀下の「材官」に対する顔師古注所引の張晏の言に「材官・騎士習射・御・騎・馳・戰・陳、常以八月、太守・都尉・令・長・丞會都試、課殿最」とあるように、武官の試験である都試は八月に行われている。


 書き下し文 

史・卜の子、年十七歳にして學ぶ。史・卜・祝の學童、學ぶこと三歳、學佴將いて大史・大卜・大祝に詣り、郡史の學童、其の守に詣り、皆會して八月朔日に之を試す。


 通 釈 

史・卜の子弟は年齢が満十七歳になると、専門知識を学ぶ。史・卜・祝の学童は三年間学ぶと、その監督責任者である学佴が彼らを引率してそれぞれ太史・太卜・太祝のもとを訪れ、また郡の史の学童はその郡の太守のもとを訪れ、みな一同に会して、八月朔日に彼らを試験する。


○第四七五簡・四七六簡

 原 文 

 試史學童以十五篇能風書五千字以上乃得爲史∠有以八豊(從月)試之郡移其八豊(從月)課大∥史∥誦課取冣一人以爲其縣令  四七五

 史殿者勿以爲史三歳壹并課取冣一人以爲尚書卒史   四七六


 校訂文 

試史學童以十五篇〔一〕、能風(諷)書五千字以上〔二〕、乃得爲史〔三〕。有(又)以八豊(從月)(體)試之〔四〕、郡移其八豊(從月)(體)課大(太)史〔五〕。大(太)史誦課、取冣(最)一人以爲其縣令史、殿者勿以爲史〔六〕。三歳壹并課〔七〕、取冣(最)一人以爲尚書卒史〔八〕。


 注 釈 

〔 一 〕試史~五篇 〔整理小組〕十五篇とは、『史籀篇』を指す。『漢書』芸文志に「『史籀』十五篇」とある。〔案〕すでに指摘したように(第四七四簡注〔一〕)、本条は『説文』所引尉律および『漢志』所引漢律に類似した条文が見え、これら三者を前段も併せて対応させると次の通りである。


 [史律]               史・卜子年十七歳  學。

 [説文]尉律、            學僮   十七 已上始試。

 [漢志]漢興、蕭何草律、亦著其法、曰、


 [史律]史・卜・祝學童學三歳、學佴將詣大史・大卜・大祝、郡史學童詣其守、皆會八月朔日試之。

 [説文]

 [漢志]


 [史律]  試史學童以十五篇、能風 書五千字以上、乃得爲史。有以八豊(從月)試之。郡移其八豊(從月)課大史。

 [説文] 始試。        諷籀書九千字、  乃得爲吏。又以八體試之。郡移    太史、

 [漢志]太史試 學童、    能諷 書九千字以上、乃得爲史。又以六體試之、


 [史律]大史誦課、取冣一人以爲其縣令史、殿者勿以爲史。三歳壹并課、取冣 一人以爲尚書卒史。

 [説文]                          并課。 最者  以爲尚書 史。

 [漢志]                           課  最者  以爲尚書・御史史書令史。


 [史律]

 [説文]   書  或不正、輒舉劾之。

 [漢志]吏民上書、字或不正、輒舉劾。


「十五篇」について、『説文』所引尉律および『漢志』所引漢律には見えないが、整理小組が比定する『史籀篇』とは、『漢書』巻三〇・芸文志・六芸略・小学家の筆頭に挙げられ、その本注に「周宣王太史作『大篆』十五篇、建武時、亡六篇矣」、同小叙に「『史籀篇』者、周時史官敎學童書也」とあるように、西周・宣王期に太史であった史籀によって著された官吏養成用の教材とされる。史籀については、馬(從走)鼎(集成5.2815)に「史留受王令(命)書王乎(呼)内史囗册易(賜)馬(從走)玄衣・屯(純)黹・赤巿・朱黄・䜌旂・攸勒」とあり、陳佩芬氏によれば、この銘文に記される冊命儀礼において命書を王に渡す「史留」という人物が『史籀』十五篇の撰者・史籀その人で、西周の厲王期に史として在職し、共和期を経て宣王期に太史に昇進した、とする(陳一九八二)。

〔 二 〕能風~以上 〔整理小組〕諷とは、読誦することである。〔案〕「風(諷)書」について、『説文』所引尉律では「諷籀書」に作り、桂馥『説文解字義証』巻四九は「晏氏『類要』、籀文、周太史史籀作也。後人以名偁書、謂之籀書」と言い、『漢書』芸文志に見える『史籀』十五篇として解し、一方、段玉裁は「諷、謂能背誦尉律之文。籀書、謂能取尉律之義、推演發揮」とする。また李学勤氏は、次の第四七七簡~第四七八簡に「卜學童能風(諷)書史書三千字」とあることから、「諷」・「書」の二字はいずれも動詞で、「諷」は暗誦、「書」は書写の意とする(李二〇〇二)。黄留珠氏は、『説文』所引尉律の「諷」について、『説文』言部に「諷。誦也」、「誦。諷也」とあり、「諷」と「誦」とが互訓の関係にあり、『戦国策』秦策五・濮陽人呂不韋賈於邯鄲章に「王使子誦、子曰、少棄捐在外、嘗無師傅所敎學、不習於誦」とあることから、「諷」、すなわち「誦」が秦代、人を試するのに用いられた一般的な方法であったとする(黄一九八三)。『周礼』春官・大司楽条に「以樂語敎國子興・道・諷・誦・言・語」とあり、その鄭玄注に「倍文曰諷。以聲節之曰誦」とあるのに従えば、諷とは単に諳んじることで、これに対して本条下文に見える「大(太)史誦課」の「誦」とは節回しをつけて詠唱することと解される。時代のやや下る事例ではあるが、『論衡』自紀篇に「(王充)八歳出於書館。書館小僮百人以上、皆以過失袒謫、或以書醜得鞭。充書日進、又無過失、手書既成、辭師受『論語』・『尚書』、日諷千字」とあり、後漢代では「諷」は書館という一種の教育機関において受けるような正式な科目の一つであったと考えられる。

 本条で読み書きする字数が「五千字」とあり、『説文』所引尉律および『漢志』所引律の「九千字」に比べて少ないことについて、李学勤氏は『史籀篇』が後に加筆されたか、あるいは注解も含めた字数であるかも知れない、とする(李二〇〇二)。また、池田雄一氏は、漢代の有用文字数について、李斯の『蒼頡』、趙高の『爰歴』、胡毋敬『博学』の秦代の小学三書を合わせた所謂『蒼頡篇』や司馬相如撰『凡将篇』、史游撰『急就篇』など秦漢時代の各小学書の収録字数を踏まえ、官吏の養成・任用という側面から検討し、『説文』所引尉律の「九千字」の「九」が、三、四あるいは五などの類似する字形の転写の誤りである可能性を示唆する(池田二〇〇二、六八一頁)。

〔 三 〕乃得爲史 〔案〕『説文』所引尉律は「史」を「吏」に作るが、段玉裁は「史、各本作吏。今依江式傳正」として「史」字に訂正し、「得爲史、得爲郡縣史也」とする。本条では「乃得爲史」の末尾に墨釘「∠」があり、一定の条件を挟んで「以爲其縣令史」など具体的な官への採用規定が続く。卜や祝について記した第四七七・四七八簡、第四七九・四八〇簡においても同様に、「乃得爲……」の後に墨釘「∠」があり、条件・採用規定と続くことから、ここでいう五千字以上のみ書きとは、史として採用するための必要最小限の資格を述べたものと思われる。

〔 四 〕有以~試之〔整理小組〕八體については、『説文』叙に「秦書有八體。一曰大篆。二曰小篆。三曰刻符。四曰蟲書。五曰摹印。六曰署書。七曰殳書。八曰隸書」とある。〔案〕八体とは、整理小組が引く『説文』叙にあるように、秦代に用いられていた八種類の書体「秦書八体」を指す。『漢志』所引漢律は「六體」に作り、下文に「六體者、古文・奇字・篆書・隸書・繆篆・蟲書」とあるが、『説文』叙の「又以八體試之」に対する段玉裁注に「八體、『漢志』作六體。攷六體、乃亡新時所立。漢初蕭何艸律、當沿秦八體耳」とあるように、六体とは王莽の新代に制定された六種類の書体「王莽六体」を指し、段注の指摘や本条から『漢志』小叙の「六體」が「八體」の誤りであることは明白である。なお、「秦書八体」と「王莽六体」との対応関係を示すと次の通りである。



秦書八體

王莽六體


①古文

孔子壁中書也


②奇字

即古文而異者也

①大篆



②小篆

③篆書

即小篆、秦始皇帝使下杜人程邈所作也

③刻符



④蟲書

⑥鳥蟲書

所以書幡信也

⑤摹印

⑤繆篆

所以摹印

⑥署書



⑦殳書



⑧隸書

④佐書

即秦隸書


〔 五 〕郡移~大史 〔整理小組〕課については、『広雅』釈言に「試也」とある。〔案〕『説文』所引尉律は「其八豊(從月)(體)課」を欠き、郡から太史に移される内容がはっきりせず、『漢志』所引漢律では本条全体を欠く。整理小組は本条の「課」を「試也」という動詞として解しているかのごとくであるが、ここでは郡守が太史に「移」す目的語、すなわち名詞としての「課」であろう。居延新簡に「建始二年十二月甲寅朔甲寅、臨木候長憲敢言之。謹移郵書課一編、敢言之」(居延新簡EPT51・264)とあり、「移○○課」という同類の構文が見える。劉軍氏はこのような居延漢簡に見える「課」を整理し、それが特定の機構や人員によって行われる審査、評定であると同時に、その過程で作成される文書形式も「課」と呼ばれ、郵書課や駅馬課、表火課など多くの種類があったことを指摘する(劉一九九三)。本条の「課」がどのような形式の文書であるのかは不明であるが、その内容は郡で行われた八体の課試の成績であったと考えられる。

〔 六 〕大史~爲史 〔案〕前掲注〔二〕で指摘したように、誦とは節回しをつけて詠唱することで、先に挙げた『戦国策』秦策五・濮陽人呂不韋賈於邯鄲章に「嘗無師傅所敎學、不習於誦」とあり、『史記』巻一三〇・太史公自序の「年十歳即誦古文」に対する『索隠』に「案、遷及事伏生、是學誦古文尚書」とあるように、「誦」も「諷」と同様に、先秦から漢代にかけて師傅などから受けるような正式な科目の一つであったと考えられる。

「冣(最)」は、注〔五〕に挙げた『漢書』巻八・宣帝紀・地節四年九月の詔の「課殿最以聞」に対する顔師古注に「凡言殿最者、殿、後也、課居後也。最、凡要之首也、課居先也」とあるように、「課」における上位者である。

〔 七 〕三歳壹并課 〔案〕「并課」について、『説文』叙の段注では「并課者、合而試之也。上文試以諷籀書九千字、謂試其記誦文理。試以八體、謂試其字迹。縣移之郡、郡移之大史、大史合試此二者」とあり、『説文』所引尉律の該当箇所を九千字のみ書きと八体の課試を合わせて行う、と解している。しかし、注〔三〕で述べたように、五千字の誦み書きが必要最小条件であり、本条には『説文』所引尉律にない誦の課試があることから、本句は郡で行う八体の課と太史の行う誦の課を三年に一度総合評価することを述べていると思われる。

〔 八 〕取威~卒史 〔整理小組〕『漢書』芸文志と『説文』叙に引く「尉律」にはいずれも本条の律文と似た内容がある。〔案〕「卒史」は、『史記』巻五三・蕭相国世家の『索隠』所引如淳注に「律、郡卒史・書佐各十人也」、同書巻一二〇・汲黯列伝の『集解』所引如淳注に「律、太守・都尉・諸侯内史史各一人、卒史・書佐各十人」、『漢書』巻五八・児寛伝の顔師古注に引かれた臣瓚の言に「漢注、卒史秩百石」とあるように、郡守や都尉、諸侯など様々な官に複数名所属する秩百石の属吏である。


 書き下し文 

史の學童を試するに十五篇を以てし、能く五千字以上を風(諷)書すれば、乃ち史と爲すを得。有(又)た八豊(從月)(體)を以て之を試し、郡、其の八豊(從月)(體)の課を大(太)史に移す。大(太)史、誦もて課し、冣(最)なる一人を取りて以て其の縣の令史と爲し、殿なる者は以て史と爲すこと勿かれ。三歳に壹たび課を并せ、冣(最)なる一人を取りて以て尚書の卒史と爲す。


 通 釈 

史の学童を試験するのに『史籀』十五篇を用い、五千字以上を誦み書きすることができれば、史として採用することができる。さらに秦書八体についての試験を行い、郡守はその成績を太史の下に送る。そうすると、太史は字を誦む試験を行い、成績上位者の一人をその県令の史として採用し、一方、下位者は史に採用してはならない。三年に一度、郡で行う秦書八体と太史の行う誦の成績を総合評価し、上位者の一人を尚書の卒史として採用する。


      参考文献


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              (原載『長江流域文化研究所年報』第二號、二〇〇三年十月)


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