湖南張家界古人堤遺址出土漢簡に見える漢律の賊律・盜律について
水間大輔
はじめに
一九八七年四月~八月、湖南省張家界市古人堤の漢代房屋建築遺址で(1)、たくさんの文物とともに簡牘が出土した。その出土・整理状況を、二〇〇三年に『中國歴史文物』誌上で發表されたばかりの發掘簡報に從って概觀すると(2)、以下の通りになる。すなわち、簡牘は全部で九十片、いずれも木製であり、牘・楬・封檢などの種類がある。編綴されていた痕跡は見出せない。簡牘の中には、後漢・和帝の永元(八九年~一〇四年)、後漢・安帝の永初(一〇七年~一一三年)の紀年が記されているものもあり、かつ簡牘の書法から見ると、簡牘全體の年代はおおむね後漢と推測される。この房屋建築遺址は、池ないし淺沼の上に建てられた、いわば水上建築物であったが、簡牘はこの建築物から他の文物とともにゴミとして水中へ廢棄され、後に泥の中へ沈んだものと考えられる。
整理の結果、これらの簡牘は①漢律、②醫方、③官府文書、④書信及び禮物謁、⑤暦日表、⑥九九乘法表などの各文書であることが明らかになった。各文書の概要は發掘簡報で説明されており、また發掘簡報と同じく『中國歴史文物』誌上で全文の釋文も公表され、簡牘の整理者による注釋も付されている(以下、假にこの注釋を「簡注」と呼ぶ)(3)。
さて、これら各文書の中で、私が最も注目したいのは漢律である。漢律は後世の唐律のように、一つのまとまった書籍として今日まで傳えられているわけではなく、從來は『史記』・『漢書』などの傳世文獻の本文や注に、斷片的に引用されているもの程度しか知られていなかった。しかし、近年では中國各地で出土した簡牘により、徐々にその内容が明らかにされつつある。中でも、一九八三~八四年、湖北省荊州市荊州區張家山の第二百四十七號漢墓から出土した張家山漢簡「二年律令」には、全部で五百二十六本もの竹簡羣に、前漢初期の呂后二年(前一八六年)當時のものと見られる律令の條文が記されている。この發見によって、漢律の内容が飛躍的に知られるようになった。それゆえ、二年律令は現在中國のみならず、我が國の中國古代史研究においても、最も注目を集めている史料の一つとなっている。
一方、このたび公表された古人堤簡牘の漢律は、わずか二片の木牘に記されているにすぎないが、數條の「賊律」の條文、及び「盜律」と「賊律」の目録を内容としており、漢律の具體的内容を知るうえで重要な記述が含まれている。しかも、古人堤簡牘は後漢のものであるという點で、二年律令とは別の意味での價値を有する。すなわち、漢律は當初、秦律を基礎として制定されたが、その後何度も變更が加えられたといわれている。そこで、確かに二年律令の出土によって、漢律の具體的な内容がかなり明らかになりつつあるものの、それはあくまでも前漢初期のものであって、それ以降の漢律については、依然として不明なところが多かった。それゆえ、古人堤簡牘の出土は、前漢初期から後漢に至るまで、漢律がいかなる變遷を遂げてきたのかを檢證するための糸口を我々に提供したという點で、非常に重大な發見であるといえよう。
そこで、本稿では、古人堤簡牘の漢律を逐條的に分析し、この史料によっていかなる點が明らかになったのかを整理することとした。特に、私は近年、主に睡虎地秦簡や張家山漢簡などを史料として、秦漢期の刑法について論じてきたが(4)、古人堤簡牘の漢律から明らかになったことに照らしつつ、これまでの自分の研究も含めて從來の研究を再檢討したいと思う。
第一節 古人堤簡牘の賊律
公表された釋文によると、古人堤簡牘の第一四簡正面には、四段組で次のように記されている(5)。
賊律曰僞寫皇帝信璽 (第一欄)
皇帝行璽要斬以□僞
寫漢使節皇大子諸侯
三列侯及通官印棄市
小官印完爲城旦舂敢盜
之及私假人者若盜充
重以封及用僞印皆
各以僞寫論僞皇 (第二欄)
太后璽印寫行
璽法……
賊律僞
充
賊律曰詐僞券書 (第三欄)
…… (第四欄)
…… 充木 小史何子回符
この文章をつなげて句讀點及び校訂などを施すと、以下の通りになるであろう。
賊律曰、僞寫皇帝信璽・皇帝行璽、要斬、以徇。僞寫漢使節・皇大(太)子・諸侯・三【公?】・列侯及通官印、棄市。小官印、完爲城旦舂。敢盜之、及私假人者、若盜充重以封、及用僞印、皆各以僞寫論。僞皇太后璽印、寫行璽法……賊律僞……充……賊律曰、詐僞券書……充木 小史何子回符。
見られるように、右の文章は數條の賊律の條文を列擧したものである。以下、各條文ごとに檢討を加える。
①僞寫皇帝信璽・皇帝行璽、要斬、以徇。
〔書き下し文〕皇帝信璽・皇帝行璽を僞寫せば、要斬とし、以て徇う。
〔通 釋〕皇帝信璽・皇帝行璽を僞造すれば、要斬の刑に處し、このような犯罪が行われたことを廣く示す。
これは「皇帝信璽」・「皇帝行璽」を「僞寫」すなわち僞造することについて定めた条文である。簡注も指摘するように、二年律令の賊律には(6)、
僞寫皇帝信璽・皇帝行璽、要斬、以匀(徇)。(第九簡)
とあり、本條と同じ條文が見える。それゆえ、本條末尾の一字も「徇」字と推測されるので、補った。徇とは『漢書』卷三十一陳勝傳に、
秦傳留至咸陽、車裂留以徇。
とあるのについて、その顏師古注が、
徇、行示也。以示眾爲戒。
と述べているように、その犯罪が行われたことをあまねく民眾に對して示し、今後二度と本罪を犯す者がないよう戒めとすることである。皇帝信璽・皇帝行璽とは、いわゆる「皇帝六璽」に含まれるものである。「要斬」とは死刑の一種で、胴體を切斷する刑罰である。
②僞寫漢使節・皇大(太)子・諸侯・三【公?】・列侯及通官印、棄市。小官印、完爲城旦舂。
〔書き下し文〕漢の使節・皇太子・諸侯・三【公?】・列侯及び通官の印を僞寫せば、棄市とす。小官の印ならば、完して城旦舂と爲す。
〔通 釋〕漢の使者の節、皇太子・諸侯・三【公?】・列侯及び通官の印を僞造すれば、棄市の刑に處する。小官の印であれば、完城旦舂の刑に處する。
簡注も指摘するように、二年律令の賊律には、
僞寫徹侯印、棄市。小官印、完爲城旦舂。
(第一〇簡)
とあり、②と似たような條文が見える。ただし、二年律令には「漢使節・皇大(太)子・諸侯・三【公?】」及び「通官」についての規定がない。ちなみに、「列侯」は二年律令の「徹侯」を書替えたものであろう。徹侯・列侯とは漢代で行われていた二十等爵制のうち、最上位の爵位であるが、もともと徹侯と呼ばれていたものが、後に前漢の武帝の諱を避け、列侯と改稱されている。先述の通り、古人堤簡牘の中には後漢の元號である永元・永初が記されているものもあり、また書法から見て、古人堤簡牘全般の年代は後漢の頃のものと推測されているが、少なくともこの第一四簡正面は列侯という語が用いられているので、前漢の武帝期以後に記されたものであることは間違いない。
また、釋文によると、「諸侯」と「列侯」の間に「三」字があるが、あるいは「三公」の「公」字が脱けているのかもしれない。
次に、「通官印」は簡注も指摘する通り、二百石以上の官吏の印を指す。すなわち、『太平御覽』卷六百八十三印條引の後漢・衞宏『漢舊儀』に、
二百石以上皆爲通官印。
とある通りである。一方、「小官印」について、簡注は二百石以下の小吏の印章であり、「半通印」がこれにあたると解している。小官印が二百石以下の小吏の印章であるとする根據は示されていないが、この小官印の前に通官印についての規定があるので、おそらく二百石以上の官吏の印である通官印よりも、秩祿の低い官吏の印が小官印にあたると解したのであろう。半通印とは、方印(正方形の印)の半分の大きさで、長方形の印であり、前漢・揚雄『法言』孝至篇に、
不由其德、五兩之綸、半通之銅、亦泰矣。
とあるのについて、晉・李軌注に、
五兩之綸、半通之銅、皆有秩嗇夫之印綬、印綬之微者也。
とあり、比較的下位の官吏が用いる印とされている。
「棄市」は死刑の一種で、市において公開で執行される刑罰であるが(7)、同じく死刑である要斬よりも輕いものとされている。また、「完爲城旦舂」は四年間の強制勞働に從事させる刑罰である。それゆえ、①と②によれば、璽・印僞造の罪に對する處罰は、その璽・印に記された身分・官位に應じて要斬・棄市・完城旦舂の三段階に區分され、その身分・官位が高いほど重い刑罰に處されていることが知られる。
③敢盜之、及私假人者、若盜充重以封、及用僞印、皆各以僞寫論。
〔書き下し文〕敢て之を盜み、及び私かに人に假す者、若しくは盜充重(?)以て封じ、及び僞印を用うれば、皆な各〃僞寫を以て論ず。
〔通 釋〕以上の璽・印を盜み、及び勝手に人に貸した者、もしくは盜充重(?)以て封印し、及び僞造された印を使用すれば、いずれもそれぞれ僞寫の罪として處罰する。
「皆各以僞寫論」とは、以上の諸行爲をいずれもそれぞれ「僞寫」の罪に問う、という意味であるが、僞寫については先述の通り、①と②で定められている。つまり、本條によれば、璽・印を盜んだり、勝手に人に貸したり、「盜充重以封」を行ったり、僞造された印を使用したりすれば、璽・印を僞造したわけではないにもかかわらず、僞造の罪に問われ、①と②の規定によって處罰されることになる。①と②では、璽・印に記された身分・官位に應じて、要斬・棄市・完城旦舂という三段階の刑罰を科すものとされているので、本條に見える諸行爲もこれと同樣に處罰されるのであろう。それゆえ、例えば列侯の印を盜んだ場合、②の列侯の印を僞造した罪として、棄市の刑に處されるはずである。
なお、「盜充重以封」については解釋を保留した。簡注ではこの部分を引用し、解釋を加えているが、簡注による引用では「盜重以封」に作り、「充」字がない。それゆえ、あるいは釋文の誤植かもしれない。簡注はこれを「押印されたもとの封泥をとり除いたり、あるいは覆ったりして、新たに押印して封をする」ことと解している。しかし、「もとの封泥をとり除」くことは、「盜重以封」という句から讀みとることはできない。しかも、もとの封泥をとり除いてから、別の印を押印することは、二年律令の賊律に、
毀封、以它完封印印之、耐爲隸臣妾。(第一六簡)
とある條文がこれにあたるのであって、「盜重以封」とは別のことであろう。さらに、「盜重以封」が①・②により、璽・印に記された身分・官位に應じて、要斬・棄市・完城旦舂の刑に處されるのに對し、右の二年律令第一六簡ではそのような區別がなく、一律に耐隸臣妾の刑に處するものとされており、處罰の面でも明らかに異なっている。それゆえ、もし「盜重以封」に作るのが正しいとすれば、「盜みて重ねて以て封じ」と讀み、璽・印を盜んだうえ、既に押印された封泥を新たに泥で覆い、盜んだ璽・印を重ねて押印し、封をする、という意になるであろう。
ところで、睡虎地秦簡の「法律答問」には(8)、
盜封嗇夫、可(何)論。廷行事以僞寫印。(第四二六簡)
とあり、嗇夫の印を盜んで押印し、封をした場合、「廷行事」では「僞寫印」の罪として扱うとされている。おそらく、秦律にも①・②のような、僞寫印について定めた條文が設けられており、右の場合にはその條文によって處罰されるのであろう。ここで問題となるのは、嗇夫の印を盜んで押印し、封をした場合に僞寫印の罪として扱われる根據が、廷行事にあることである。廷行事とは「廷」における慣例、つまり判例のごときものであるが、廷行事が判斷の根據とされているということは、秦律には印を盜んで押印し、封をすることを處罰する規定がなかったのであろう。③によれば、印を盜んだ時點で既に僞寫の罪として扱われるが、秦律には③のような規定がなかったからこそ、廷行事を根據とせざるをえなかったものと思われる。おそらく、このような廷行事が、後に律の條文として制定され、③のような規定ができあがったのであろう。
以上、①~③について分析を加えたが、③の次には「僞皇太后璽印、寫行璽法……賊律僞……充……賊律曰、詐僞券書……充木 小史何子回符」とあり、皇太后の璽印や「券書」の僞造に關する規定らしきものが記されている。券書とは契約書の一種であるが(9)、簡注も指摘する通り、二年律令の賊律にも、
諸作(从言,詐)增減券書、及爲書故作(从言,詐)弗副、其以避負償、若受賞賜財物、皆坐臧(贓)爲盜。其以避論、及所不當【得爲】、以所避罪罪之。所避毋罪名、罪名不盈四兩、及毋避也、皆罰金四兩。(第一四簡・一五簡)
とあり、券書上の數値を勝手に增減したり、わざと券書の副本を作成しなかった場合についての規定がある。しかし、それ以外については判讀できない部分が多く、殘念ながらこれ以上分析を加えることはできない。
ところで、釋文によると、この古人堤簡牘第一四簡の背面には、
房孟
というわずか二字が記されているが、これが何を意味するのか、またそもそも本簡の正面の律文と關係があるのかも未詳である。二年律令の盜律の末尾にあたる第八一簡には、
■盜律 鄭尺(从女)(?)書
とあり、この「鄭尺(从女)」について張家山二四七號漢墓竹簡整理小組は、抄寫者の姓名と解しているが(10)、あるいはこの「房孟」も正面の抄寫者の姓名を表しているのかもしれない。
第二節 古人堤簡牘の盜律・賊律目録
古人堤簡牘の第二九簡正面には、六段組で次のように記されている。(次頁參照)
(第一欄) (第二欄) (第三欄) (第四欄) (第五欄) (第六欄)
□□□□ □□ □□□ 揄封 □□□ □奴□□
□□□□ □□□ 大□□□ 毀封 □子賊殺 毆決□□
□□□ □□□ 諸□□ 爲□□ □子(?)賊殺 賊燔燒宮
□□□ □□□ □□□ 諸食□肉 父母告子 失火
□□□ □□故 對(?)…… 賊殺人 奴婢賊殺 賊伐燔□
□□□ 盜出故(?)物 不□□ 鬭殺以刃 □□偸 賊殺傷人
□□□ □有□ □□皇 人殺戲 毆父母 犬殺傷人
驕□□ 諸詐始入 □□漢 謀殺人已殺 奴婢悍 船人□人
詐發□ □亡□ □□□皇 懷子而…… 父母毆笞子 諸□弓弩
盜□□ □□□□ 詐□喪(?) □蠱人 諸入食官 奴婢射人
殺人□□ 諸坐傷(?)人
これは漢律の目録であり、律の各條文で定められている犯罪の内容を、二字~五字程度で要約し、各條文の題目として列擧したものであろう。このような題目は後世でも見られ、例えば唐律の賊盜律に、
諸謀殺人者、徒三年。已傷者、絞。已殺者、斬。從而加功者、絞。不加功者、流三千里。造意者雖不行仍爲首。即從者不行、減行者一等。
とあり、計畫的な殺人罪について定めた條文があるが、これについて「謀殺人」という題目が付されている。
全六段のうち、發掘簡報は第一欄~三欄を盜律の目録、第四欄~六欄を賊律の目録と解しているのに對し、簡注では第一欄・二欄を盜律の目録、第三欄~六欄を賊律の目録と解しており、兩者は第三欄に對する理解を異にしている。盜律・賊律とは漢律の篇名であり、前者は盜みなどに關する規定、後者は殺人・傷害などに關する規定を主な内容とする。もっとも、第三欄については判讀できる部分が極めて少なく、これだけでは盜律と賊律のいずれに屬する條文の題目であるのか判斷できない。
それはともかく、本節では比較的判讀の可能な第四欄~六欄について分析を加える。
○揄封
「揄封」について簡注は、二つの解釋を擧げている。まず一つは、「揄」は「踰」の通假字であり、權限を超えて封印する意とする解釋である。そして、もう一つの解釋として、揄を「婾」の通假字と解したうえ、『説文解字』手部に、
揄、引也。
睡虎地秦簡の法律答問に、
盜徙封、贖耐。可(何)如爲封。封即田千(阡)佰(陌)頃半(畔)封殹(也)、且非是。而盜徙之、贖耐、可(何)重也。是、不重。(第四三四簡)
とあるのを引用している。後者の説は何がいいたいのか判然としないが、おそらく揄封の揄を婾、すなわち「盜」の意、「封」を土地の境界の意と解すれば、右の睡虎地秦簡の「盜徙封」とほぼ同じ意味になることを示したかったのであろう。
以上の二説のうち、私は前者の説が妥當であると考える。まず、前者の説では揄封の揄を踰の通假字と解しているが、『晉書』卷三十刑法志が擧げている三國魏「新律」の「序略」に、
賊律有欺謾・詐僞・踰封・矯制。
とあるのによれば、漢律の賊律には「踰封」についての規定が設けられていた。揄封は古人堤簡牘第二九簡正面の第四欄に記されているが、發掘簡報・簡注ともに、この第四欄は賊律の目録であるとしている。それゆえ、この揄封が踰封であるとすれば、漢律の賊律に踰封についての規定があったとする新律序略の記述と合致することになる。
もっとも、新律序略では、この踰封が具體的にいかなる犯罪なのか説明されていない。しかし、前者の説がいうように、踰封が「權限を超えて封印する」意らしいことは、次の二つの點から裏づけられる。まず第一點として、前者の説では揄封の「封」を封印の意と解しているが、後述するように、揄封の次に擧げられている「毀封」は、封泥を壞す意としか考えられない。それゆえ、毀封の直前に掲げられている揄封の封も、封泥で封印する意として用いられているはずである。後者の説では、揄封の封を土地の境界の意と解しているが、この點からすれば到底成り立ちえない解釋であろう。
第二點として、新律序略では、
賊律有欺謾・詐僞・踰封・矯制、囚律有詐僞生死、令丙有詐自復免、事類眾多、故分爲詐律。
とあり、漢律では賊律に「欺謾」・「詐僞」・「踰封」・「矯制」、囚律に「詐僞生死」、また漢令の令丙では「詐自復免」についての條文が設けられていたが、新律ではこれらを全て「詐律」に編入したとされている。詐律とはその名稱から推察するに、おそらく人を僞ることについて定めた條文を内容とするものであろう。すると、踰封も新律において詐律に編入されている以上、何かを僞る犯罪であったと推測される。そこで、簡注のいうように、權限を超えて封印することであるとすれば、本來權限がないにもかかわらず、封印を行っているという點で、確かに人を僞っていることになる。
○毀封
これは簡注も指摘する通り、二年律令の賊律に、
毀封、以它完封印印之、耐爲隸臣妾。(第一六簡)
とある條文を指すのであろう。前節でも述べたように、この條文は封泥を壞し、別の印を押印して封印することについて定めたものである。
○諸食□肉
これは二年律令の賊律に、
諸食脯肉、脯肉毒殺・傷・病人者、亟盡孰(熟)燔其餘√。其縣官脯肉也、亦燔之。當燔弗燔、及吏主者、皆坐脯肉臧(贓)、與盜同灋。(第二〇簡)
とある條文を指すのであろう。□は「脯」字と推測される。これは干し肉にあたって人が死亡したり、體を壞したりした場合、殘りの干し肉を速やかに燒却處分すべきことを定めたものである。
○賊殺人
「賊殺人」とは、加害者が被害者を一方的に、故意に殺害することを指す(11)。以前述べた通り、漢律では同じ殺人の罪でもその態樣によって、「謀殺」・「賊殺」・「鬭殺」・「戲殺」・「過失殺」・「盜殺」などの基本類型に分類し、各類型に應じてそれぞれ異なる刑罰を科していたが(12)、賊殺はそれらのうちの一つである。賊殺の處罰について定めた條文は、二年律令の賊律に二條ある。すなわち、第二一簡に、
賊殺人、鬭而殺人、棄市√。其過失及戲而殺人、贖死。
第二三簡に、
賊殺人、及與謀者、皆棄市。
とあり、いずれも棄市の刑に處すると定められている。もっとも、前者では鬭殺・過失殺・戲殺など、他の殺人類型とともに賊殺の處罰が定められているのに對し、後者では賊殺の實行行爲者と共謀者の處罰が定められているという違いがある。後述するように古人堤簡牘の第二九簡正面では、鬭殺・戲殺については別に題目が掲げられているから、本簡でいう賊殺人はあくまでも賊殺の規定のみを内容とするはずである。それゆえ、おそらく賊殺人は、賊殺の處罰のみを定めた二年律令第二三簡の規定がこれにあたると考えられる。
○鬭殺以刃
「鬭殺」とは兩者が「鬭」(爭鬭・格鬭・喧嘩)を行い、その最中に相手を死に至らしめることを指す(13)。「鬭殺以刃」とは、鬭の最中に刃物を用いて相手を殺害することであろう。後世の唐律では、鬭訟律「鬭故殺人」條に、
諸鬭毆殺人者、絞。以刃及故殺人者、斬。雖因鬭而用兵刃殺者、與故殺同。
とあり、同じ鬭殺でも鬭の最中に刃物を用いたか否かによって、扱いが異なっている。すなわち、刃物を用いなかった場合には「絞」(絞首刑)の刑に處されるが、刃物を用いた場合にはたとえ鬭の最中に殺害したとしても「故殺」の罪として扱われ、絞より一等重い「斬」(斬首)の刑に處される。故殺とは本來、加害者が被害者を一方的に、故意に殺害することであり、漢律の賊殺に相當する。すると、古人堤簡牘の漢律目録でも、刃物を用いた鬭殺の規定が題目として掲げられているから、少なくとも當時の漢律では唐律と同樣、刃物を用いたか否かによって、何らかの區別がなされていたのかもしれない。二年律令では、鬭殺の處罰についての規定は前掲の第二一簡のみであり、そこでは特に刃物の使用は問題とされていないが、別に規定が設けられていたのか、それとも二年律令當時では刃物の使用の有無を區別していなかったのかは未詳である。
○人殺戲(戲殺人)
「人殺戲」は簡注のいう通り、「戲殺人」が逆さまになっているのであろう。戲殺とは漢律の殺人類型の一つであり、兩者が戲れている最中に、誤って相手を殺害することを指す(14)。前掲の二年律令第二一簡によれば、「贖死」(黄金二斤八兩を納入させる刑罰)に處すると定められている。
○謀殺人已殺
「謀殺人」とは人を殺害しようと計畫すること、「已殺」とは計畫通り實際に殺害し終えたことを指す。謀殺や已殺といった語は、漢代の文獻に若干用例があり、例えば『漢書』卷五十三景十三王傳に、
又與從弟調等謀殺一家三人、已殺。
とあるごとくである。一方、二年律令にこれらの語は見えないが、謀殺人已殺とは要するに計畫的な殺人のことであるから、以前發表した論文では、二年律令において計畫的殺人がいかなる扱いを受けていたのかを檢討した。すなわち、二年律令の賊律に、
賊殺人、及與謀者、皆棄市。(第二三簡)
とあり、賊殺の實行行爲者、及び共謀者はいずれも棄市の刑に處すると定められていること、また同じく賊律に、
謀賊殺傷人、與賊同灋。(第二六簡)
とあり、賊殺について共謀した者は賊殺と同じ規定によって處罰すると定められていることから、殺人の實行行爲者、及び實行行爲に參加せず共謀に加わったのみの者の双方とも、賊殺の罪として棄市の刑に處されていたと結論づけた(15)。おそらく、この謀殺人已殺は以上のような處罰を内容とする規定であろう。
○懷子而……
これについて簡注は、妊婦による犯罪を指し、漢律には妊婦に對して刑罰を輕減する規定があったと述べている。しかし、そうではなく、これは二年律令の賊律に、
鬭敺(毆)變人、耐爲隸臣妾√。褱(从子,懷)子而敢與人爭鬭、人雖敺(毆)變之、罰爲人變者金四兩。(第三一簡)
とある條文の後半部分を指すのであろう。傍線で示した通り、「懷子而」は後半部分の出だしである「褱(从子,懷)子而」と一致する。この後半部分は、妊婦が自分から挑んで人と鬭を行ったものの、相手が妊婦を毆って流産させた場合、その相手を「罰金四兩」(黄金四兩を納入させる刑罰)に處すると定めたものである。
○□蠱人
これについて簡注は、「蠱」とは「蠱毒」、「蠱人」とは毒を投ずることを指すとしたうえで、二年律令の賊律に、
有挾毒矢若謹(堇)毒√・崔(从米,)、及和爲謹(堇)毒者、皆棄市。(第一八簡)
『周禮』秋官庶氏の鄭玄注引の賊律に、
敢蠱人、及敎令者、棄市。
とあるのを引用している。「□蠱人」が鄭玄注引の賊律にあたることは、確かに簡注の指摘する通りであろう。□はおそらく「敢」字であったと推測される。しかし、蠱は蠱毒の意ではなく、いわゆる「巫蠱」を指すのであろう。もっとも、確かに唐律の賊盜律「造畜蠱毒」條には、
諸造畜蠱毒、及敎令者、絞。
とあり、鄭玄注引の賊律とよく似た條文があるが、そこでは蠱毒について定められている。蠱毒とは毒蟲を原料とし、まじないによって製造する毒藥である。實際に毒藥としての効果があるのかどうかはともかく、人に危害を加える効果があると信じられていた(16)。しかし、瞿同祖氏が指摘されるように、漢代の蠱は唐律と異なり、巫蠱を指すと考えられる(17)。巫蠱とは、人形(ひとがた)を地面に埋め、呪いをかけて人を病氣にさせたり、呪い殺したりすることである。それゆえ、「敢蠱人」とは、巫蠱によって人に呪いをかけることであろう。鄭玄注引の賊律によれば、巫蠱によって人に呪いをかけた者、及び巫蠱のやり方を敎えた者は、棄市の刑に處すると定められている。
また、簡注の擧げている二年律令の第一八簡は、毒矢や「堇毒」(トリカブト)・「崔(从米)」(トリカブト)を所持したり、調合したりすることを禁止した條文であるが、これらの毒物は巫蠱とは關係がなく、ましてや唐律の蠱毒のようにまじないによって製造するものでもない。それゆえ、本條を「□蠱人」に關聯する史料として擧げるのは當をえないであろう。
○□子賊殺・□子(?)賊殺
いずれも冒頭の字が欠けているので、判然としないが、あるいは子が父母を賊殺することについて定めた條文を指すのかもしれない。二年律令の賊律には、
子賊殺傷父母√、奴婢賊殺傷主・主父母妻子、皆梟其首市。(第三四簡)
とあり、子が父母を賊殺・賊傷(故意に傷を負わせること)すれば、「梟首」(頭部を切斷した後、頭部を公眾の面前にさらす刑罰)に處すると定められている。
○父母告子
簡注も指摘するように、二年律令の賊律には、
子牧殺父母、敺(毆)詈泰父母・父母・叚(假)大母・主母・後母、及父母告子不孝、皆棄市。(第三五簡)
とあり、父母は子に不孝な點があればこれを告發し、その子を棄市の刑に處するよう、國家に對して要求することができた。睡虎地秦簡の「封診式」には、
告子 爰書、某里士五(伍)甲告曰、甲親子同里士五(伍)丙不孝、謁殺。敢告。(第六三〇簡)
とあり、親が子の不孝を告發し、子を殺すよう國家に對して要求している例が見えるが、おそらく右の二年律令の條文に相當する秦律の條文を根據としているのであろう。また、同じく封診式には、
䙴(遷)子 爰書、某里士五(伍)甲告曰、謁鋈親子同里士五(伍)丙足、䙴(遷)蜀邊縣、令終身毋得去䙴(遷)所。敢告。(第六二六簡・六二七簡)
とあり、親が子を告發し、子の足に枷をはめたうえ、蜀の邊縣へ遷刑に處するよう求めている。おそらく、この「父母告子」は、以上のように父母が子を告發することについて定めた條文を指すのであろう。
○奴婢賊殺
簡注も指摘する通り、これは奴婢がその主ないし主の家族を賊殺することについて定めた條文を指すのであろう。二年律令の賊律には、
子賊殺傷父母、奴婢賊殺傷主・主父母妻子、皆梟其首市。(第三四簡)
とあり、奴婢が主ないし主の父母妻子を賊殺・賊傷すれば、梟首の刑に處すると定められている。もっとも、この第三四簡では、子が父母を賊殺・賊傷した場合についても定められている。しかし、先述のように、「□子賊殺」ないし「□子(?)賊殺」が、子が父母を賊殺することについて定めた條文を指すとすれば、古人堤簡牘の漢律では二年律令と異なり、子が父母を賊殺することと、奴婢が主ないしその家族を賊殺することとは、それぞれ別の條文で定められていたことになる。
○毆父母
二年律令の賊律には、
子牧殺父母、敺(毆)詈泰父母・父母・叚(假)大母・主母・後母、及父母告子不孝、皆棄市。(第三五簡)
とあり、子が父母を毆れば棄市の刑に處すると定められている。もっとも、その一方で『太平御覽』卷六百四十決獄條引の『董仲舒決獄』には、
甲父乙與丙爭言相鬭。丙以佩刀刺乙。甲即以杖擊丙、誤傷乙。甲當何論。或曰、毆父也。當梟首。論曰、臣愚以父子至親也、聞其鬭、莫不有怵悵之心、扶伏而救之。非所以欲詬父也。春秋之義、許止父病、進藥於其父而卒、君子原心、赦而不誅。甲非律所謂毆父也。不當坐。
とあり、律によれば、父を毆った場合、梟首にあたるとされている。それゆえ、二年律令の時代から、董仲舒が活躍した前漢の武帝期に至るまでの間に、父を毆る罪に對して科される刑罰は、棄市から梟首へと改められたことが知られる。古人堤簡牘が後漢のものであることを考えると、おそらく二年律令よりも武帝期の律の方が、この「毆父母」の指す條文により近いものであったと推測される。
○奴婢悍
「悍」とは『荀子』王制篇の楊倞注に、
悍、凶暴也。
とあるように、凶暴の意である。おそらく、二年律令の賊律に、
母妻子者、棄市√。其悍主而謁殺之、亦棄市。謁斬若刑、爲斬・刑之。(第四四簡)
とある條文がこれにあたると考えられる。第四四簡は竹簡の上部が欠けているが、「其悍主而謁殺之、亦棄市」とは奴婢が主に對して反抗的であるため、主がその奴婢を殺すよう國家に對して要求した場合、その奴婢を棄市の刑に處する、ということであろう。また、「謁斬若刑、爲斬・刑之」とは、主が奴婢に「斬」(斬左趾ないし斬右趾)・「刑」(黥)を科すよう、國家に對して要求した場合、その要求通りに斬ないし刑を奴婢に科す、という意味であろう。睡虎地秦簡の封診式には、
告臣 爰書、某里士五(伍)甲縛詣男子丙。告曰、丙、甲臣。橋(驕)悍、不田作、不聽甲令。謁買(賣)公、斬以爲城旦、受賈(價)錢。(第六一七簡・六一八簡)
とあり、凶暴で働かず、主の命令を聞かない「臣」(奴)を主が告發し、斬城旦の刑に處するよう求めている。また、同じく封診式には、
黥妾 爰書、某里公士甲縛詣大女子丙。告曰、某里五大夫乙家吏。丙、乙妾殹(也)。乙使甲曰、丙悍。謁黥劓丙。(第六二二簡・六二三簡)
とあり、主が「妾」(婢)を黥劓の刑に處するよう求めているが、これらはいずれも二年律令の第四四簡に相當する秦律の規定を根據としているのであろう。
○父母毆笞子
簡注も指摘する通り、二年律令の賊律に、
父母敺(毆)笞子及奴婢、子及奴婢以敺(毆)笞辜死、令贖死。(第三九簡)
とある條文がこれにあたるのであろう。これは父母が子や奴婢を毆ったり笞で打ったりして、死に至らしめた場合、贖死の刑に處すると定めたものである。
○毆決□□
二年律令の賊律には、
鬭而以釰(刃)及金鐵鋭・錘椎傷人、皆完爲城旦舂√。其非用此物而眇(?)人、折枳(肢?)・齒・指、胅體√、斷決鼻耳者、耐。(第二七簡・二八簡)
とあり、鬭の最中に「刃」(刃物)・「金鐵鋭」(矛の類の武器)・「錘椎」(かなづち)以外のもので相手の鼻・耳を切れば、「耐」の刑に處すると定められている。「毆決□□」はこの下線部に相當するのかもしれない。もしそうであるとすれば、「□□」は「鼻耳」の可能性がある。なお、睡虎地秦簡の法律答問にも、
律曰、鬭夬(決)人耳、耐。(第四五〇簡)
とあり、鬭の最中に人の耳を切れば、耐の刑に處するという秦律の條文が見える。
○賊燔燒宮
簡注も指摘する通り、二年律令の賊律に、
賊燔城・官府及縣官積冣(聚)、棄市。賊燔寺舍√・民室屋・廬舍・積冣(聚)、黥爲城旦舂√。(第四簡)
とある條文がほぼこれに相當するものと考えられる。本條は城・官府及び縣官の蓄えた收穫物や、官舍・民の家屋・廬舍(田畑の中に建てられた小屋)・收穫物を故意に燒いた場合の處罰について定めたものである。
○失火
二年律令の賊律には、前掲の第四簡に續いて、
其失火延燔之、罰金四兩、責所燔。(第四簡・五簡)
とあるが、簡注も指摘する通り、これが「失火」に相當するものと考えられる。本條によれば、失火によって延燒した場合、罰金四兩の刑に處し、燒いたものの賠償を請求するものとされている。
○賊伐燔□
新律序略に、
賊律有賊伐樹木・殺傷人畜産及諸亡印。
とあるのによれば、漢律の賊律には「賊伐樹木」についての規定が設けられていたごとくである。賊伐樹木とは、故意に樹木を伐ることであろう。これについて清の張鵬一は、
此不言何處樹木、當統官私言之。
と述べ、ここでいう樹木は官有・私有を問わないと解している(『漢律類纂』賊律)。「賊伐燔□」とは、あるいはこの「賊伐樹木」を指すのかもしれない。もっとも、古人堤簡牘の方では「燔」ともあるので、故意に樹木を伐るだけではなく、樹木を燒くことについても定められていた可能性がある。
○賊殺傷人・犬殺傷人
「賊殺傷人」について簡注は、「殺」は衍字かもしれないとする。それというのも、もし殺字が衍字でないとすれば、「賊殺傷人」とは賊殺人・賊傷人について定めた條文の題目ということになるが、賊殺人については既に第四欄で登場しており、重複することになってしまうからであろう。このような解釋が正しいとすれば、簡注も指摘する通り、二年律令の賊律に、
賊傷人、及自賊傷以避事者、皆黥爲城旦舂。(第二五簡)
とある條文がこれにあたると考えられる。また、「犬殺傷人」について簡注は、他の史料に見えないと述べている。
しかし、私は、「賊殺傷人」は右の賊傷人の條文を指すのではなく、同じく二年律令の賊律に、
賊殺傷人畜産、與盜同灋。畜産爲人牧而殺傷
(第四九簡)
とある條文を指し、そして「犬殺傷人」は同じく二年律令の賊律に、
犬殺傷人畜産、犬主賞(償)之、它
(第五〇簡)
とある條文を指すと考える。「賊殺傷人」・「犬殺傷人」はそれぞれ二年律令の第四九簡・第五〇簡の冒頭と完全に一致するし、またこのように解すれば、「賊殺傷人」の「殺」を衍字と見る必要もなくなる。しかも、古人堤簡牘の漢律目録では、「賊殺傷人」の次に「犬殺傷人」が擧げられているが、前者が二年律令の第四九簡の條文、後者が第五〇簡の條文を指すとすれば、少なくともこの部分に限っては、二年律令の配列と一致することになる。
もっとも、「賊殺傷人」・「犬殺傷人」だけではあたかも人を賊殺・賊傷した場合、及び犬が人を殺傷した場合について定めた條文の題目のごとくに受けとられるが、第四九簡は「賊殺傷人畜産」とあるように、あくまでも人の家畜を賊殺・賊傷することについて定めた條文であって、人を賊殺・賊傷することではない。また、第五〇簡は犬が人の家畜を殺傷したことについて定めたものである。それゆえ、おそらく「賊殺傷人」・「犬殺傷人」ともに、「人」字の下に「畜産」が省略されているか、あるいは當初は「畜産」と記されていたものの、木牘の劣化に伴い、消えてしまったのかもしれない。
○船人□人
簡注も指摘する通り、二年律令の賊律に、
船人渡人而流殺人、耐之。船嗇夫・吏主者贖耐。其殺馬・牛、及傷人、船人贖耐。船嗇夫・吏贖䙴(遷)。其敗亡粟・米・它物、出其半、以半負船人。舳艫負二、徒負一。其可紐毄(繋)而亡之、盡負之。舳艫亦負二、徒負一。罰船嗇夫・吏金各四兩。流殺傷人、殺馬・牛、有(又)亡粟・米・它物者、不負。(第六簡~八簡)
とある條文を指すのであろう。簡注は、「船人□人」の「□」は「殺」ないし「流」字であったと推測しているが、本條の冒頭には「船人渡人」とあるので、あるいは「渡」字であったのかもしれない。これは「船人」が船を運航させる際に、人や馬牛を殺傷したり、積荷に損失を與えたりした場合について定めたものである。
○奴婢射人
「奴婢射人」とは、奴婢が人に向かって矢を射ることであろう。『後漢書』卷一光武帝紀下の建武十一年條に、
冬十月壬午、詔除奴婢射傷人棄市律。
とあるのによれば、後漢・光武帝の建武十一年(後三五年)に詔が出され、「奴婢射傷人棄市」という律の規定が廢止されているが、「奴婢射人」とはまさにこの「奴婢射傷人棄市」を指すのであろう。「奴婢射傷人棄市」とは、奴婢が人を射て負傷させた場合、棄市の刑に處する、という意味である。奴婢ではなく通常人の場合、故意に人を傷つければ、二年律令の賊律に、
賊傷人、及自賊傷以避事者、皆黥爲城旦舂。(第二五簡)
とある規定が適用され、黥城旦舂の刑に處される(もっとも前漢の文帝十三年以降は髡鉗城旦舂であろう)(18)。それゆえ、奴婢が人を射て負傷させれば、通常よりも重く處罰されていることになる。
ところで、右の『後漢書』の記述によれば、後漢初期の建武十一年に「奴婢射人」條が廢止されているが、發掘簡報によれば、古人堤簡牘は後漢のものであり、しかも永元・永初といった後漢中期の元號が記された簡牘も含まれている。それでは、なぜ古人堤簡牘の漢律目録に、建武十一年に廢止されたはずの條文の題目が記されているのであろうか。建武十一年に廢止され、その後この規定が復活したのかもしれないが、少なくとも『後漢書』などの史料にそのような記載はない。それゆえ、あるいはこの第二九簡正面に限っては、建武十一年以前に記されたものかもしれない。
第三節 二年律令と古人堤簡牘漢律の比較
以上、二節にわたって、古人堤簡牘の漢律について分析を加えたが、第一四簡正面の賊律の條文、及び第二九簡正面の漢律目録には、二年律令の條文と共通するものが非常に多く見られる。以上の分析を踏まえて、古人堤簡牘の漢律全體を二年律令と比較すると、次の二つの點が指摘できよう。まず第一點として、二年律令では一つの條文上で定められているものが、古人堤簡牘では二つ以上の條文で別個に定められている場合も見られることである。この點については、前節で行った漢律目録の分析の中で逐一指摘したが、今一度一例を擧げると、例えば二年律令の賊律では、
賊殺人、鬭而殺人、棄市√。其過失及戲而殺人、贖死。
とあり、賊殺・鬭殺・過失殺・戲殺という四つの殺人類型について、一つの條文内で定められている。ところが、古人堤簡牘の漢律目録では、「賊殺人」・「鬭殺以刃」・「戲殺人」にわけられている。
第二點として、古人堤簡牘の第一四簡正面に記されている賊律の條文の配列、及び第二九簡正面に記されている漢律目録の配列は、二年律令の配列と共通する部分もあれば、異なる部分もあるということである。これをわかりやすくするために、古人堤簡牘の漢律がそれぞれ二年律令の第何簡に相當するのかを示すと、次の通りになる(ただし、第何簡に相當するのか不明であるものは除く)。
〔古人堤簡牘〕 〔二年律令〕
第一四簡正面
① 第九簡
② 第一〇簡
第二九簡正面
毀封 第一六簡
諸食□肉 第二〇簡
賊殺人 第二一簡
第二三簡
戲殺人 第二一簡
謀殺人已殺 第二三簡
第二六簡
懷子而…… 第三一簡
□子賊殺 第三四簡?
□子(?)賊殺 第三四簡?
父母告子 第三五簡
奴婢賊殺 第三四簡
毆父母 第三五簡
奴婢悍 第四四簡
父母毆笞子 第三九簡
毆決□□ 第二七簡・二八簡
賊燔燒宮 第四簡
失火 第四簡・五簡
賊殺傷人 第四九簡
犬殺傷人 第五〇簡
船人□人 第六簡~八簡
これによると、第一四簡正面のうち、少なくとも①と②は二年律令の配列と共通している。一方、第二九簡正面の各條文の題目は、おおむね二年律令の配列通りに竝んでいるが、「賊燔燒宮」・「失火」・「船人□人」は大幅にずれていることがわかる。
それでは、以上の二つの點は何を意味するのであろうか。まず、前者については、一見すると次のように考えることもできそうである。すなわち、前節で述べた通り、古人堤簡牘の第二九簡正面については、後漢の建武十一年以前に記された可能性もあるが、それでもおそらく前漢初期の呂后二年のものである二年律令よりはるかに新しいものであろう。それゆえ、二年律令では一條として定められていたものが、古人堤簡牘で複數の條文にわけて定められているのは、二年律令の時代から古人堤簡牘の時代へと至るまでの間に、漢律の條文の整理が行われた結果と見れなくもない。
また、後者については、次のようにも考えられる。すなわち、二年律令も含む張家山漢簡は、もともと數卷の册書として編まれ、「竹笥」(竹製の箱)の中に入れられていたようであるが、發掘されたとき、竹笥は既に朽ちていた。しかも、槨室内への浸水により、竹簡羣は散亂しており、いかなる順
序で編綴されていたのか、一見しただけではわからなくなっていた。それゆえ、竹簡羣の整理にあたった張家山二四七號漢墓竹簡整理小組は、竹簡の堆積状況や形態・字體・内容などから判斷して、その順序を復元したのであるが(19)、果してどれほど正確に復元できたのかは、疑問の餘地がないこともなかった。それゆえ、一枚の木牘に記されている古人堤簡牘の漢律目録こそが、漢律の眞の配列を知ることのできる史料である、と見れなくもない。
しかし、この古人堤簡牘の第一四簡正面、及び第二九簡正面は、果していかなる性質の文書であったのであろうか。例えば、これが私的な手控えのごときものであったとすれば、本來一つの條文であるものを、適宜複數の條文に分割したり、條文の配列を變更することは十分ありえるであろう。しかも、第二九簡正面の漢律目録には、第三欄あるいは第四欄以降、賊律の各条文の題目が記されているが、おそらく全ての賊律の題目を記したものではあるまい。もっとも、本簡には判讀できない部分もあり、あるいは他の木牘に續きが記されていた可能性もあろうが、二年律令の賊律と比較すると、この漢律目録に見えない條文がいくつもある。さらに、この漢律目録では、「賊殺人」・「鬭殺以刃」・「戲殺人」・「謀殺人已殺」の順に、殺人罪の基本類型がまとめて列擧されているが、過失殺の題目がこの前後に見當らないのも、この目録が不完全なものであることを窺わせる。それゆえ、この目録は、當時施行されていた漢律をある程度もとにして記されたものではあるものの、正式な漢律において、ある事柄が一つの條文で定められていたのか否か、また賊律の各條文がいかなる配列をとっていたのかを知るうえでは、必ずしも信頼の置けない史料なのかもしれない。もっとも、二年律令も個人の墓から出土していることを考えると、あるいはこれも被葬者の私的な手控えであり、古人堤簡牘の漢律と同じことがいえる可能性もある。それゆえ、漢律の條文の形態・配列については、まだまだ今後の檢討に委ねなければならないであろう。
結 語
古人堤簡牘の漢律はわずか二片の木牘に、數條の賊律の條文、及び盜律・賊律の目録が記されているだけであり、これらをもってしても、後漢當時に行われていた律の全貌を把握できるというものでもない。しかも、第三節で指摘した通り、いかなる性格の文書であったのかという問題もある。しかし、それでも主に二年律令と照らし合わせることによって、漢律についてこれまで知られていなかった、さまざまな點が明らかになった。漢律が前漢初期から後漢に至るまで、いかなる變遷を遂げてきたのかは、二年律令と古人堤簡牘を分析するだけでは必ずしも明らかにしがたいものの、今後も出土するであろう漢代簡牘資料と合わせて檢討することによって、本格的に可能となるかもしれない。そういう意味では、古人堤簡牘の出土は、漢律の研究をまた一歩前進させたといえよう。
注
(1) ちなみに、發掘當時、古人堤遺址は大庸市に屬していたが、後に張家界市と改められた。
(2) 湖南省文物考古研究所・中國文物研究所「湖南張家界古人堤遺址與出土簡牘概述」(『中國歴史文物』二〇〇三年第二期)參照。なお、この發掘簡報が發表されたことは、早稻田大學大學院文學研究科COE客員研究助手の森和氏から御敎示いただいた。この場を借りて謝意を表する次第である。
(3) 湖南省文物考古研究所・中國文物研究所「湖南張家界古人堤簡牘釋文與簡注」(『中國歴史文物』二〇〇三年第二期)參照。
(4) 拙稿「戰國秦漢期の伍連坐制による民眾支配」(『中國出土資料研究』第五號、二〇〇一年)、「秦律・漢律における共犯の處罰原理――その歴史的變遷と思想的背景――」(『法制史研究』第五十一號、二〇〇二年)、「張家山漢簡「二年律令」刑法雜考――睡虎地秦簡出土以降の秦漢刑法研究の再檢討――」(『中國出土資料研究』第六號、二〇〇二年)、「秦律・漢律における殺人罪の類型――張家山漢簡「二年律令」を中心に――」(『史觀』第百四十八册、二〇〇三年)、「秦律・漢律における未遂・豫備・陰謀罪の處罰――張家山漢簡「二年律令」を中心に――」(『史學雜誌』掲載豫定)參照。
(5) 古人堤簡牘の簡番號・釋文は注(3)によった。なお、『中國歴史文物』二〇〇三年第二期の七四頁には、古人堤簡牘の圖版が數點掲載されているが、殘念ながら漢律が記されている簡牘の圖版は掲載されていない。
(6) 二年律令の簡番號・釋文は張家山二四七號漢墓竹簡整理小組『張家山漢墓竹簡〔二四七號墓〕』(文物出版社、二〇〇一年)によった。
(7) 棄市の具體的な執行方法については、斬首とするのが傳統的な解釋であったが、近年張建國氏、曹旅寧氏は、棄市は絞首刑であったとする新たな解釋を提示されている。張氏「秦漢棄市非斬刑辨」(『帝制時代的中國法』法律出版社、一九九九年)、同「「棄市」刑相關問題的再商榷――答牛繼清先生」(同上)、曹氏「从天水放馬灘秦簡看秦代的棄市」(『秦律新探』中國社會科學出版社、二〇〇二年)參照。
(8) 睡虎地秦簡の簡番號は雲夢睡虎地秦墓編寫組『雲夢睡虎地秦墓』(文物出版社、一九八一年)によった。釋文は同書及び睡虎地秦墓竹簡整理小組『睡虎地秦墓竹簡』(文物出版社、一九九○年)によった。
(9) 券書については、林巳奈夫編『漢代の文物』(京都大學人文科學研究所、一九七六年)五三五・五三六頁參照。
(10) 前掲『張家山漢墓竹簡』一四五頁「■盜律」條注〔一〕參照。
(11) 賊殺人については、矢澤悦子「鬭と賊――秦、漢代における傷害と殺人の二つの形態について――」(池田雄一編『奏谳書――中國古代の裁判記録――』刀水書房、二〇〇二年)、拙稿「秦律・漢律における殺人罪の類型」參照。
(12) 拙稿「秦律・漢律における殺人罪の類型」參照。
(13) 鬭殺については、注(11)參照。
(14) 戲殺については、注(12)參照。
(15) 注(12)參照。
(16) 蠱毒については、詳しくは楊立中「反對審判工作中的唯心主義思想」(『政法研究』一九五五年第三期)、T’ung-tsu Ch’ü, “Law and Society in Traditional China”, Paris Mouton&Co la Haye, 1961, p.222-225など參照。
(17) “Law and Society in Traditional China”, p.222, note 100.
(18) 冨谷至氏は、文帝十三年の肉刑廢止に伴って黥刑も廢止され、黥城旦舂に代わって髡鉗城旦舂という刑罰が設けられたと述べておられる。冨谷氏『秦漢刑罰制度の研究』(同朋舍、一九九八年)一四一~一四八頁參照。
(19) 張家山漢簡の出土・整理状況については、荊州地區博物館「江陵張家山三座漢墓出土大批竹簡」(『文物』一九八五年第一期)、前掲『張家山漢墓竹簡』前言參照。
〔附記〕本稿は平成十五年度文部科學省科學研究費補助金特別研究員奬励費(研究課題「中國古代刑法研究――中國古代刑法の刑法總論的研究とその民眾支配的性格の檢討――」)による研究成果の一部である。原刊于早稻田大学《长江流域文化研究所年报》第二号,早稻田大学长江流域研究所2003年10月。